昭和が死んだ日に映画館は生きていた

 テレビはときどき死ぬ。最近死んだのは、昭和が死んだ日にテレビが殉死した昭和六四年のことである。平成が生まれる瞬間、テレビ画面が凍り付いたように天皇薨去のニュースだけを報じ、各局一斉に喪に服したときである。

 昭和の終わりの日に、テレビが死んだとき、映画館は生きていた。

 教育放送の子供向き番組を除いてすべての局が右にならえ。歌舞音曲が自粛され、すべての娯楽番組が停止した。これは明治天の、大正天皇の薨去のときにも同様であった。全国で、この年、運動会まで自粛しようという空気に日本中が包まれたのだ。二月の大喪の礼の前後に、人々は手持ち無沙汰で町に出た。見るべきテレビ番組がないので、しかたなくビデオ店に出かけた。そのとき思い出したように気づいたのは、映画館はあいているだろうか、ということだった。問い合わせの電話が久しぶりに映画館にかかってきた。映画館はあいていた。すでに当局は映画館を取り締まるほどの影響力を認めていなかった。皮肉なことだ。かつて戦後の税収の多くを担って連日すし詰め状態で人々が殺到した映画館に、日々の娯楽を求める要求が復活した一瞬だった。

 国家のシンボルである天皇を悼まないわけではない。映像を求める健全な精神が、同じ画面しか放映しないテレビに違和感と疎外感を感じたのだ。

 佐藤栄作首相が退任するとき、記者会見で新聞記者を排除したのを思い出す。テレビは信用できるからと言って、テレビカメラだけ残した。この人の精神が健全であるかどうかはともかく、言論には歪曲があるが、テレビは事実をそのまま伝えるという信仰があったのではないか。

 リクルート疑獄事件では、国会喚問の中継では証人となった江副さんや中曽根さんの映像が静止画面に切り替わり、凍り付いてしまった。

 テレビはよく死ぬ。ときどき仮死状態になって、この国が一旦緩急のときに死ぬことを思い出させる。

 平成元年(1989)

1月、福島東宝プラザと福島日活ロマンが相次いで閉館。原町シネマ閉館。

東宝プラザで観た「ギャラクテイカ」のコンクリートにとどろく音響の響き、原町シネマでみた「恐竜の島」「続恐竜の島」「スーパーガール」を思い出す。日活ロマンはついに入ったことがないが、薄いコンクリート壁を通して、プラザの方にも日活女優の喘ぎ声が漏れ聞こえてきたものだった。なつかしや。

8月、倉本聡脚本・反戦ドラマ、本名小校舎に白羽の矢。学童疎開の舞台。金山町民も協力。主演する中井貴一らが5日からロケ。緒方拳、郷ひろみなどのキャスト。疎開した学童の喧嘩シーンの舞台は金山町営玉梨牧場。フジテレビで制作。(8.4.友)

「大霊界・死んだらどうなる」が霊界ブームつくる。

洋画トップ収益は「インデイ・ジョーンズ」第二位「レインマン」。

「敦煌」「黒い雨」「どついたるねん」「千利休」「魔女の宅急便」「利休」「その男、凶暴につき」「あうん」

「ダイ・ハード」「紅いコーリャン」「レイン・マン」「ニュー・シネマ・パラダイス」

「敦煌」の中国ロケは迫力あった。佐藤浩一、西田敏行。ノーベル賞候補の井上靖も天上で喜ぶだろう。「魔女の宅急便」は原作の味とラストでかなり違う。

平成2年(1990)

2月、「蔵シック映画祭」が開催。「太陽の帝国」「八月の濡れた砂」「卒業」「ピーターパン」「不思議の国のアリス」「MOMO」「銀河鉄道の夜」「マイフェアレディー」「プロジェクトA2」の9本上映。前年のアンケートで要望の高かった上位の作品が選ばれた。6回目。

山川捨松の半生がドラマ化。火曜スーパーワイド「鹿鳴館の貴婦人」放映。原作者久野明子は捨松の孫。名取裕子主演。大山巌に露口茂、津田梅子に紺野美佐子、ほかに檀ふみ、樹木希林、西村晃、田村亮、加藤治子ら。一本のドラマには破格の制作費二億円をかけた。テレビ朝日。2月6日放送。(1.20.友)

すかがわ国際短編映画祭第二回 6ヶ国の21本(河北H2.4.28.

「桜の園」「少年時代」「死の棘」「夢」「3-4×10月」「あげまん」

「非常城市」「フィールド・オブ・ドリームス」

「死の棘」は私の卒論作家島尾敏雄の代表作。少年時代を過ごした小高町に夫婦で心中しようとやって来るが未遂に終わる。岸部一徳と松坂慶子は秀逸。あの文学をよく映画化した。「フィールド・オブ・ドリームス」は心に響く。あぶくま新報に映画評を書く。編集長の独断で、朝日座の映画広告を毎回大きく入れた。

原町朝日座はファンの要望で閉館をとどまる。しかし閉館は秒読み段階だった。

 平成3年(1991)

広瀬座は梁川町の河川改修のため福島市の民家園に移転することになり解体される。浜通りで、いわき以外では唯一の映画館だった朝日座(原町・布川雄幸社長)が9月30日に閉館した。創立70周年で、閉館記念に選ばれたのは「ニューシネマパラダイス」だった。

 閉館の日には「シザーハンズ」「ホームアローン」が上映され、最後のセレモニーが行われた。ぼくは夢中で8ミリビデオのカメラを回した。画面の中で、館主の布川雄幸氏は、チャップリンのような影をバックのスクリーンに映して、自分の人生を振り返っていた。

「福本耕平かく走りき」ヘラルドエース配給(久保田傑監督)が決定。

 東映教育映画「野口英世の少年時代」や「若き日の豊田佐吉」などビデオで復刻。(3.22.友)

「戦争と青春」市民から一口10万円の資金集め市民プロデューサー制度で堂々完成(今井正監督。工藤夕貴主演)福島フォーラムで関係者ら試写会20日夜(8.22.毎日)

 「息子」「大誘拐」「8月の狂詩曲」「無能の人」「おもひでぽろぽろ」

 「ダンス・ウイズ・ウルブズ」「羊たちの沈黙」「ターミネーター2」

 平成4年(1992)年

 1月、白河友楽座が閉館。

10月限りで栄町の福島東宝劇場と福島スカラ座の二館が閉館。「影武者」「天と地と」もここで見た。

 1025日、福島フォーラムに3,4スクリーン開館。

 平成5年(1993

4月、福島の東宝とスカラ座が閉館したものが復活。しばらく息を吹き返した。

4月、金山町で「あひるのうたがきこえてくるよ」ロケ。作家椎名誠と町民との温かい交流は県民をホットさせた。友の会ができて文庫設立や野球試合などが行われた。

原町市における亀井文夫の全作品上映はすべて完了。

平成6年(1994)

7月、いわき市内の全映画館で一人につき200円駐車料金割引サービスをスタート。好評。

10月、高羽哲夫撮影監督の故郷湯川村公民館で「寅さん」映画のポスター展示会。

短編映画で日本映画界に参入した萩本欽一が11月福島に来訪。映画と講演の会が行われ、萩本氏が「せっかくだから」と講演時間延長し上映予定の映画を割愛。ファンの顰蹙をかう。

平成7年(1995)

8月、福島市は終戦50周年で記念映画会を開催。中学生900人をアニメ「アンネの日記」に招待した。

9月終戦の時、樺太版ひめゆり部隊といわれた幻の「氷雪の門」が福島で監督みずから上映会。

平成8年(1996)

映画伝来百年の記念映画会が郡山などで開催される。

6月6日、郡山でリュミエール映画祭が開催され、世界初の映画や日本初の映像が次々に上映され、映画史を研究中のぼくには頭がくらくらするほどの刺激だった。

 平成9年(1997)

須賀川で唯一の映画館「中央館」(宮先町、石井敬三社長)が3月末に閉館。同館は繁華街の中心地にあり、大正8年2月に会社を設立して開館。昭和32年に火災にあって建てて直した一部鉄骨の木造二階建てで客席は320席。映画全盛の30年代には日活の裕次郎や小林旭、加山雄三主演の映画、東宝の「ゴジラ」など上映時は満員で、入場者が列をなしたこともある。しかし建物が老朽化したうえ、映画人口は激減。下水道化を控えて新たな設備投資による収支改善も見通しがつかず、78年間にわたって夢と文化を提供しつづけてきた歴史に幕を閉じた。

平成9年4月、福島県映画センターが閉鎖された。

 福島でも東宝、東映が閉館し、そこへ集約的なシネマ・コンプレックスというシステムを取り入れたワーナーマイカルが進出して、新時代を迎えた。

 4月、相馬郡鹿島町にホームステイしている映画好きのドイツ人高校生ヨハネス君が「インデペンデンス・デイ」をホストの栗原さんと仙台で見てきた、という。

 あれはドイツ人の監督がハリウッドで作った映画なんだよと指摘すると「ええ? 本当ですか。知らなかったなあ」と目を輝かせた。後年、栗原宅には別なドイツ人留学生ガブリエル君が滞在したが、留学生同士でドイツ語のビデオを融通しあってはドイツ語の刑事ドラマを見ていた。ぼくはドイツ語の響きを勉強したくてレンタル・ビデオ・ショップでドイツ映画を探したが、「Uボート」ぐらいしかなく、あとはドイツで作っても英語バージョンばかり。「インデペンデンス・デイ」は宇宙人侵略ものだが、ラストは7月4日のアメリカ建国記念日に人類が大反撃して勝利するというたあいのないストーリーで、程度の低いアメリカ人にはうけるだろうがここまでハリウッド的に撮ったエメリッヒ監督には疑問を感じた。もともとヨーロッパで、気象兵器を使って世界中で軍事介入するアメリカに批判的なSF映画「ノア」を撮って注目された彼は、その映画的才能を認められアメリカに招請されるやいなやこんな迎合的な映画を作る。「ゴジラ」の手際の良さも認めるが、この人は無定見すぎる。

 平成10(1998)

 大林宣彦監督作品「風の歌が聴きたい」のモデルは飯坂町出身の高島良宏さん。同じ聴覚障害を持つ妻の久美子さんと夫婦でトライアスロンに参加する姿が描かれた。9月、福島フォーラムで本人を迎えて上映。

 福島民家園で絵於けした「二宮金次郎物語」が完成、公開される。

自主上映の機運

 「みたい映画を自分たちの手で」という気持ちは誰にでもあるが、その一歩を踏み出す人が、映画文化を豊かにする。さまざまな種類の映画がさまざまな目的で、市民運動のの一環として個人、団体の主催で上映された。昭和40年代の太陽族映画の氾濫に反発した本宮方式の母親運動や、原町市の「良い映画を見る会の自主上映や推薦映画の選定、県文化センターの上映会などがあるが、ここでは50年代以降の自主上映の流れを追ってみる。

 昭和56(1981)

いわき市の「シネマテーク81」自主上映グループ(依袋慎二代表)はそれまで数年間市内のホールを借りて「やさしい日本人」「田園に死す」などの独立プロ作品やゴダール作品などの自主上映を試みてきたが、平松竹の協力を得て第一回8月「白昼の通り魔」(大島渚)「約束」(斎藤耕一)など4本の邦画を上映した。9月12日には「泥の河」の試写会を小栗康平監督自身を招いて開いた。第二回上映は「清順・蜷川の映像美学の世界」、鈴木清順「悲愁物語」「魔性の夏」を予定。映画の日を前に「水上勉の世界」と題する上映会も計画。「飢餓海峡」もノーカット上映をやりたい。「人間の条件」全6部の一挙上映が当面の夢だという。(56.9.25.朝日)

 昭和57(1982)

 反核映画の自主上映が県内各地で展開された。10フィート・フィルム運動で、アメリカから購入した原爆フィルムを構成し全国で上映された。第一作「にんげんをかえせ」の上映会を予約していた原町公民館が高度に政治的だとして施設使用を認めず大問題となった。

 3月、郡山いわきの2映画館で反核映画第一作上映。

 8月、いわきで反核映画第二作を自主上映。

 9月、相馬市の荒川新太郎中学教諭が原町朝日座の協力で自主上映開始。

 10月若者のパワーで梁川広瀬座の復活運動展開。郡山の会社員が自主上映会を主催。

 11月いわきのキネマ館で、大森監督迎え映画とトークの集い。

 昭和58(1983)

 5月、いわきの喫茶店「キネマ館」で16ミリ「市民ケーン」上映。10月キネマ館で石井正人監督を招いて作品上映とトークの会。

 6月、福島北高校で「東京裁判」上映。

 県の医師グループが福島市で8月反核映画を自主上映。

 福島市に映画一座が誕生。「映画一座通信」を発行など活動。

 福島大学の学生が自主製作映画を見る会結成。

昭和59(1984)

 1月梁川広瀬座で若者の手で高橋竹山公演。

東北過疎をテーマにした長編記録映画「ニッポン国古屋敷村」が郡山市公会堂で上映。。57年に映画雑誌で人気投票第一位。上映時間は三時間半。福島市でも県文化センターで上映。(59.1.18.友) 

 都教祖と日本電波ニュース社が製作した「子どもたちの昭和史」第一部「大東亜戦争」第二部「十五年戦争と教師たち」上映。(11.23.朝日)

12月、16ミリで「廃市」自主上映。(朝日12.1.

 昭和60(1985)

町民製作映画「こころの山脈」は55年に青年学級祭で上映したきり。20年ぶり公開上映。フィルムは本宮中央館に保管されていた。16ミリ。(民報60.3.16.

福島茂庭、天戸座の復活の機運。(民報1.7.

 昭和61(1986)

 6月、広瀬座でマルセ太郎の形態模写公演。ロードショーのハイライトシーンをひとりで再現。(朝日6.7.

7月、ニカラグアに愛の手をと市民が医療救済を目的に「アルシノとコンドル」上映会。益金で衣料品を贈った。(7.26.友)

9月、いわき福島郡山で「山谷(やま)」自主上映。(朝日9.2.

 昭和62(1987)

 埋もれた名作を再上映しようと「よい映画を楽しむ会」が福島に発足、定期的に鑑賞会。「砂の器」などを16ミリで。(62.1.21.友)

 ニカラグアの医療救済を目的に昨年秋に「アルシノとコンドル」を福島駅前東映で上映。

 郡部でも「霊山映画を観る会」などが活動。第一回は前年6月「中央公民館で「砂の器」上映。(1.23.朝日) 

 県立美術館も「エデンの東」「戦艦ポチョムキン」「道」「死刑台のエレベーター」など多彩な名画を上映。16ミリで無料。(8.19.友夕刊)ベスト5は「エデンの東」「赤と黒」「誰がために鐘は鳴る」「メアリーポピンズ」「自転車泥棒」

 福島中央テレビ主催で移動演劇隊殉難の記録映画「さくら隊散る」県内4ヶ所で一般公開。7月から8月にかけて上映。(6.9.友)

 渡辺浩子「路」トルコ・スイス合作「エル・スール」「田舎の日曜日」上映。(友8.11.

 「小津映画」の魅力もっと多くの人にと福島でファンが手作り企画で「東京物語」フォーラムで上映。(11.15.朝日)

 3年後の3月に予定されている河川改修工事の立ち退きを迫られた梁川町の広瀬座で大みそか徹夜上映。石原裕次郎復活祈願オールナイト映画会(12.24.友)、広瀬座で仮面ライダー、ラーメンマン、ドラゴンボール2回「蒲田行進曲」「太陽の季節」「嵐を呼ぶ男」「青春の樹」4本立てを4回。阿武隈急行もイベントに逢わせて臨時列車を増発。(12.26.河北「大みそかは眠らない」) 

昭和63(1988)

 相原さんら5人グループ夢工場「ゆきゆきて神軍」「家庭教師」上映。(民報63.2.16.

 原町で中年世代が結集してなつかしの裕次郎映画など上映。(河北5.31.

「アニメ琉子」完成。(6.21.河北)

平成1年(1989)

原町市で2月「白い旗の少女琉子」で上映会。求められて私も子供達の感想文コンクールに景品を提供した。

 すかがわ国際短編映画祭スタート。

 トリュフォーファン手作り企画が実現。 福島の映画館フォーラムで1988「TOKYO POP」81年アカデミーー外国映画賞「モスクワは涙を信じない」米映画「アンナ」「恋のエチュード」「突然炎のごとく」上映。(1.13.朝日)

 アルメニア、タジク大地震の被災者救援しようと市民がソ連の名作「モスクワは涙を信じない」を福島フォーラムで上映、カンパや浄財も贈る。(民報1.30.

 親子でアニメ楽しむ会がが郡山で初の日ソ合作「小さなペンギン・ロロの冒険」を郡山市文化センターで上映。(2.7.民報)

 県アジアアフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会が反アパルトヘイトのビデオ21日に福島中合デパートで上映。(4.14.読売)

 11月、日本キリスト教団原町教会主催のマザー・テレサ映画会、朝日座で。

平成2年(1990) 

会津労映が再建大会。会津労映は商業ベース以外の良い映画を安く鑑賞しようと昭和41年に発足。再建問題が持ち上がったのは、それまで一手に会運営を引き受けていた曽根啓介前事務局長が2月に急逝したため。例会は月一回5月「タスマニア物語」6月「あげまん」9月「千利休 本覚坊遺文」が用意。(民友4.26)

 福島在住の沖縄県人会が沖縄戦の悲惨さ知ってと栄町の沖縄料理店「ぱいなっぷる家ハウス」で「沖縄戦、未来への証言」上映。フィルム1フィート運動の会がアメリカワシントン国立公文書館から買い取ったもの。(8.21.友夕)

 この年、記録映画「べンポスタ 子ども共和国」いわきの主婦グループが翌年2月めざし準備。いわき市文化センターで2月、福島郡山でも主婦グループが3月上映を計画。

 原町キリスト教会で16ミリアパルトヘイト・ドキュメンタリー映画会。

平成3年(1991)

 飯館村公民館で二組の高校生カップルの妊娠や中絶を扱った生命の尊厳を訴えた作品「若人よ」(槙坪多鶴子監督)の講演映画会。第一回若妻の翼団員で構成する「いいたてウイング19」メンバー主催。(1.17.友)

平成4年(1992

 第七回あいづ映画祭参加で二年前松竹映画に出演した村山功さん資金提供した瀬戸慎吾監督第一回作品「幸せの続く様に」16ミリ上映。(9.3.毎日)

平成5年(1993)

 「阿賀に生きる」坂下中央公民館で上映会 。(3.28.河北)

 「月光の夏」(神山征二郎監督)特攻隊訓練基地のあった矢吹町の有志が文化センターで7月自主上映。8月郡山、9月福島でも上映。(6.24.読売)

 8月、石井正人の「CUT」川俣と福島で無料上映会。

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