とうとう「その日」は来た。
経営が健全なうちに、無理をせず、「戦後の映画ブームで儲けさせてもらったお礼に」と最後に最新の封切り映画を興行して朝日座は閉館した。朝日座は平成3年6月には70周年記念と銘打って「シネマ・パラダイス」を上映した。
〇さようならありがとう朝日座
大正十二年に常設映画館として開館した朝日座が、夢の殿堂の銀幕を静かに降ろす。映画の灯火をともし続けて七十年間。庶民の哀歓とともに歩んだ朝日座ではあるが、時代の流れは、テレビ、ビデオ、衛星放送、ハイビジョンという技術革新の進むデジタル映像の世界に移り、フィルムで銀幕に映写という情緒たっぷりの映画館は、後退を余儀なくされており、福島県でもいわき市を除く浜通り相馬双葉地方で唯一の孤塁を守ってきたが、惜しむ声の中、今月(九月)三十日で幕を閉じる。
人口五万未満の小市原町市で、大都会のロードショー館と競って大衆娯楽の灯火を守ってきた館主の布川雄幸さんは昨年閉館を決意したが、周囲の声もあってしばらく存続させ、閉館までの猶予期間として一年間、人気の高い邦画、洋画の封切り作品を次々に上映。最後のサービスを行ってきた。六月には「ニュー・シネマ・パラダイス」を創業七十周年記念と銘打って特別上映。これはイタリアの田舎町の名物館ニュー・シネマ・パラダイス(実はキリスト教会が村の娯楽センターとして映画の上映館を兼ねていた)をめぐる印象的な人物の青春や人生を描いた映画だった。このストーリーにみずからの人生を重ねて、館主布川さんは万感をこめて選んだに違いない。
この小さな町の青春のさなかに映画で育った世代として朝日座はわれらの学校であった。まことにお世話になった。ありがとう、さようなら、朝日座。映画よ、永遠なれ。
〇ご苦労さま。朝日座と布川夫妻。
ラストナイト・イン・アサヒザ
来るべき日がとうとう来てしまった。そんな夜だった。九月三十日午後七時五十分。臨終の床で関係者一同が、ロビーでその瞬間を待っているようなバツの悪い間が、なんとも気まずい。相双地方で唯一の孤塁を守ってきた映画館朝日座の最後の日は、やはり寂しかった。客席を埋めた百余人のファンの見守る中で、銀幕は静かに死んだ。
これだけの人が、毎日この場所を埋めていればなあ、と嘆息が洩れた。古き良き青春よ、さらば。
名残りを惜しむ市民、高校生らが、普段は使わない舞台に上がった館主布川さんと和子夫人の健闘に「長い間ご苦労さまでした」と次々に花束を渡した。そして館主の一世一代の興行師としての口上。映画こそはわが青春だった。好きな道をここまでやれて悔いなし。さわやかな別れでもあった。大正生れの朝日座の長い青春が、今終わった。
〇さよなら朝日座
「最後にまたイベントをやるのかと問われたが、県内にはこれから閉館を考えている映画館がある。新聞で大きく扱われては他の館を刺激するので、ひっそりと幕を降ろしたい」閉館直前に、館主の布川さんは語った。しかし、地域社会の中で共生してきた映画館の閉館は、いわば社会事件。閉館と聞きつけた映画ファンは、朝日座に最後の別れを告げるために集まってきた。九月三十日午後七時。花束や熨斗のついた一升瓶を持った隣組の人たちや、商店街の関係者、布川氏の友人らが、続々とロビーにやってくる。これで最後の上映だというので、名残を惜しむ夫婦連れや高校生ら多種多様な人々が、客席を埋めた。
早坂教諭は三年前に朝日座館主の布川氏をモデルに「旭日館異聞」というオリジナルのシナリオを創作し、相馬高校演劇部を率いて上演。高校演劇コンクールの舞台で披露したこともある。
布川夫妻は、自分たちの映画にかけた人生が劇化されて舞台上の芝居になるとあって、県大会の開催された福島市春日町の県文化センターに夫婦水入らずで出向いた。
映画常設館という銀幕の殿堂に仕え続けてきた一生は、夫婦でのんびり旅行するという平凡な楽しみとも無縁だったが、こんな機会でもなければ二人で出かけることもない、と決意しての人生の句読点のような思い出の旅だった。それもこれも走馬灯のように脳裏を巡ったに違いない。お客さんに感謝の言葉を述べたい、という布川さんは普段使われない舞台に上がり、映画にのめりこんだ青春の日々を語り、宮城県の農業試験場の職員時代には給料のほとんどをつぎ込んだ、というほど映画に熱中した。そんな情熱が朝日座の先代に見込まれて後継者となったが、新旧の世代で番組を組む興行上の意見が噛み合わずに衝突することもあった。これが最後という切実な思いで、しかし淡々と人生を振り返り布川さんの口上は続く。テレビ局の強烈なライトが、時おり銀幕に布川さんの大きな影を映し出す。まるでチャップリンのようなその影。一生を一気に語り尽くした感のある一世一代のスピーチであった。
一匹狼として孤高を保ってきた経営者は、最後まで自分のペースで始末をつけるつもりだった。しかしそれを友人たちが許さない。最後に、青春の日々に朝日座に世話になった人々が次々に立ってマイクを握る。思い入れたっぷりな思い出を吐露し、そして感想の弁を。
そして舞台上の布川夫妻は花束攻めに。乾杯の音頭をとるために相馬市からかけつけた広文堂書店の児玉節専務は、「しばしば夜中にわが家族だけのために上映してもらった『木靴の樹』や、『旅芸人の記録』ではお尻が痛かったほど。最高の思い出です。」と陳述。児玉氏は独り芝居『土佐源氏』上演にも関わった。朝日座の舞台が使われた珍しい機会だった。
「私は原町では流れ者。特攻訓練のため原町飛行場に来た時に、朝日座で雨の降るような古いフィルムを見たもんですよ」と、四葉商店街の八牧通泰さん。
ヒゲの医師、ふりど循環器の島國義院長。少年時代の最高の娯楽だった映画について、また久しぶりで帰ってきた原町で抱いた、衰退してゆく映画館への悲痛な思い。複雑な感情を「うまく表現できない。何と言ってよいのか」と閉館を惜しむ映画ファンとして原町人としての、正直な感慨を集約していた。
松浦尚三原町商工会議所専務理事が、最後の万歳三唱をリード。「閉館は寂しいが、これで時間に追われず布川夫妻が夫婦水入らずの生活が出来て夕食を一緒に食べられるのがいい。ご長寿を願って。」
朝日座は、町の商店街の地面に建っていた、というより、この六十六歳になる大正青年の双肩の上に建っていたことが分かる。
寸劇は終わった。しかし老兵は死なず。
映写機、スピーカー等。それぞれ行き先が決まり、まだ決まらない機械もある。駐車場になるのかどうか土地は地主の胸三寸。閉館の整理のために翌日から今しばらくはまた忙しい。(平成3年10月18日あぶくま新報)