東映女優・橘麻紀のデビュー
小高出身の折笠春江は、47年にワーナーパイオニアから加納エリ子の芸名で歌手としてデビュー。自慢の脚に1億円の保険をかけて話題になった。48年には橘真紀と改名して東映女優に転進。「やくざ対Gメン・囮」に助演で初出演。その後、麻紀と改名し50年、関本郁夫監督「好色・元禄マル秘物語」にお七役で初主演した。その後も東映映画、テレビに出演。
破られた「十戒」ポスター
昭和48年8月1日から朝日座で「十戒」が上映された。市内のあるプロテスタント教会の牧師夫人が、ポスターを破いて歩く、という事件が起きた。日ごろ、日活ロマンポルノや東映ヤクザ映画ばかり上映している原町の映画界には珍しいハリウッド大作洋画。しかも日本人になじみのない聖書ものであるのに、お伽話のような映像化は真の信仰に有害であるとの理由であった。
中野磐雄遺品展と「ああ決戦航空隊」
昭和49年11月29日から朝日座は東映作品「ああ航空決戦隊」を上映。原町は神風特攻隊の第一号敷島隊の一人中野磐雄を生み出した町でもある。ゆかりの遺品を遺族から借りて、朝日座のロビーで、遺品展示をおこなった。
映画館の跡地にセントラル・プラザ
昭和49年から50年にかけて、駅前のセントラル劇場(原町中央映画劇場)跡地に、劇場の外観を残したセントラル・プラザという飲食店、風俗店キャバレー・ハワイなどの集合店舗ができた。 戦後の一時期、映画ブームとともに誕生し、短命に終わったセントラル劇場の名残は、その名前だけを残して消えた。ちなみに、この通りは今日も「中央通り」のままだ。 昭和50年。朝日座で4月29日「エマニュエル夫人」を上映。フィルムの値段は高かったが興行成績も良かった。同年上映のソフィアローレン、マルチェロ・マストロヤンニ「ひまわり」、オッタビオ・ピッコロ「家庭教師」も印象的だった。
原町シネクラブ
昭和51年2月、かつての原町映劇は名前も文化劇場とかえて営業していたが、山形出身の若い長沢裕二マネージャーが赴任してきた。彼の後押しで原町シネクラブ(木幡真一・栗原美代子代表)が誕生し、自主上映活動を展開した。第一回上映は日活「私が・棄てた・女」。5月23日に上映。第二回は黒沢明「どですかでん」、翌年の52年4月3日「軍旗はためく下に」、4月10日「けんかえれじい」上映。5月15日「さらば夏の光よ」 このほか「やさしいにっぽん人」「東京物語」「忘れられた人々」「裸の島」「勝手にしやがれ」「ワラの犬」「地下水道」「あらかじめ失われた恋人たちよ」など通算28回。 シネ・クラブ事務局長遠藤央氏は、文化劇場消滅のあと、原町市よい映画を見る会に合流し、自主上映活動を継続。
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