西高東低の映画館前線
昭和30年代、映画鑑賞の時間にぞろぞろと映画館まで歩いて団体で見た。すべて邦画である。母ものを見た記憶がある。朝日座に桟敷席や二階があって驚いた。
40年代、映画鑑賞は洋画になっていた。「サウンド・オブ・ミュージック」(40年6月26日公開)、「天地創造」(41年10月8日公開)などだ。昭和42年にはリバイバルの「風と共に去りぬ」を見たが、あまりの人気に立ち見であった。記憶では大入り満員で、最後列で四時間も立ったまま大人の後ろ髪しか見ていない。爪先だって大人の背中の隙間からあの画面を眺めたのだ。目撃したのはアトランタ炎上画面の映画の熱気よりも、鮨詰め状態の観客の熱気であった。
昭和42年、洋画の公開数は239本で、配給総収入は前年より7億5400万円増収の12億2500万円と、戦後最高の記録。配収上位の10作品は次の通り。
①007は二度死ぬ ②グラン・プリ ③プロフェッショナル ④風と共に去りぬ ⑤夕日のガンマン ⑥おしゃれ泥棒 ⑦戦争と平和・完結編 ⑧続・荒野の七人 ⑨パリは燃えているか ⑩続黄金の七人・レインボー作戦
マカロニ・ウエスタンと称されたイタリア製の西部劇が世界中を席巻していた。「荒野の用心棒」「夕日のガンマン」など、軽快で印象的な音楽と豪快なアクションが売りである。映画のいいところは、世界中の大都会の観客も田舎の小都市の中学生も、同時代に同内容を楽しめるということにある。田舎に住みながらも、映画少年の心はシティーボーイであった。
ただし、昭和43年に入学した高校での管理体制は大きなギャップがあった。恐ろしいほどの動脈硬化したセンセイたちがいた。映画に対するアレルギー体質には、驚くべきものがあった。
高校一年の時にリバイバルの「あの胸にもう一度」を朝日座で見た。
その年、つまり昭和43年に「ロミオとジュリエット」がかかった。オリビア・ハッセーの可憐さに息を呑んだ。(布施明よくやった!)
これなどは原作が有名な文芸作品だったから推薦したのであろうが、学生運動が盛んになりつつあった時代に田舎の高校教師たちは、映画を青少年の「文化財」扱いをしなくなり、36年から48年まで原高新聞からも映画広告はいっさい消滅した。映画評もない。思えば、安保以後、不寛容な時代に入っていた。
グルノーブル冬季オリンピックの記録映画「白い恋人たち」は覆面作曲家フランシス・レイが音楽担当で、43年の作品。朝日座では昭和44年6月11日から24日上映。これと「男と女」もクロード・ルルーシュ監督。甘酸っぱい青年ルノー・ベルレー主演の「個人教授」などなど、時代を彩る作品の題名については、リストに譲る。
朝日座は、わが青春の映画館だった。話題になっていようがなっていまいが、何でもよかった。朝日座にやってきたものは、洋画であればなしくずし的にほとんどすべて見た。
日本映画は衰退していたが、洋画しか見ないぼくにとってはあまり関係のないことだった。