そしてテレビがやってきた
日本のテレビ放送は昭和28年にスタートし、30年代には爆発的に普及した。映画は、戦前戦中から引き続き人気があり、戦後の娯楽として全盛期を迎えた。福島県の民間ラジオは昭和28年にようやくラジオ福島が開局。原町のラジオ中継所が28年12月に開局。県下のNHK福島放送局は昭和34年の開局。
ラジオ放送の人気番組の「笛吹童子」は映画化され、「紅孔雀」の人気も高かった。
34年3月1日NHK福島テレビが開局。37年9月1日、NHK相馬原町局が設置された。38年2月25日政治的に混乱をきたして長く調整できなかった県下民間初のFTV福島テレビがようやく開局。38年には須賀川でテレビのチャンネルを争って殺人事件が起きたり、プロレス中継を見ていた老婆がショックで死んだり、11月23日には日米宇宙中継でケネディ大統領暗殺のニュースが飛び込み、と新メディアの刺激は社会そのものを変質させていた。人口の半分が農家の県下にも21万4000台。テレビは2軒に1台が普及した。2月原町の文化劇場が半焼。3月鹿島劇場で少年が刺されるという事件が起こった。
昭和39年の東京オリンピックの実況放送を契機に、テレビは本格的カラーの普及時代を迎えたが福島県では40年9月17日に初めてNHKのカラー放送が開始した。しかし浜通り原町地方は仙台からの電波を受信していたから東北放送、仙台放送などで結構楽しんでいた。現在でも相馬原町の家々のアンテナは北を向いている。
昭和39年9月には原町市の二ツ森山頂に、NHKとFTVのサテライト(中継局)が設置された。この年の10月10日には東京オリンピックが開幕し、大人も子供も放送に熱狂した。というか、一家に一台しか普及していないのだから、同じ番組を見るわけだ。映画にしても、老若、男女を問わず、同じ作品を見ていた。貧しさゆえに価値観は多様化していなかった。お茶の間に、家庭の団欒が生きていた。
有無を言わさず家庭に闖入してきたテレビに、黄金の時間(ゴールデン・アワー)は占領され、日曜日の朝も魂を奪われ、テレビはたちまち最強のメディアとなった。テレビが毎日の主食になり、映画はたまにめぐり合わせる「ご馳走」であった。
昭和41年の新聞のテレビ欄は、ラジオ欄と並列で、同じ面積を占めている。
昭和43年4月に原町でカラーテレビ講習会が開催され、県内のカラーテレビ普及は5000台とある。