7. 黄金の映画狂時代 そしてテレビがやってきた
戦後の福島県下の劇場群 空前の映画館ブーム、県下に188館
日本における映画館が最多を記録したのは映画年鑑によると昭和35年のことで、全国に7457館が営業していた。県史によると昭和33年には福島県内では172館が存在した。昭和31年の民友の記事によると仮設まで含めると188館を数える。映画黄金時代のピークだった。 32年の福島税務署の税務白書が発表され、興行のトップは映画で9割を占め、年間に一人12回映画館に足を運び、1万1000人に常設映画館1館という、ついに飽和点にまで達した。映画館の木戸では、お札を足もとのリンゴ箱に踏みつけてぎゅうぎゅう詰めにするほど流行った、という。 昭和32年12月17日の原高新聞は「高校生と映画」と題するアンケートと、原町市内3館の支配人を囲んだ座談会を企画し、第2紙面をすべて当てて特集している。 当時の人気作品は①誰がために鐘は鳴る ②エデンの東 二十四の瞳 ④野菊の如き君なりき 智恵子抄 ⑥風とともに去りぬ 慕情 ⑧シェーン ⑨居酒屋 雨に歌えば ビルマの竪琴 座談会には朝日座から布川雄幸氏、中央映劇から千葉博史氏が出席した。
昭和32年には朝日座で今井正「米」を上映している。 東映東京作品。霞ヶ浦の農漁村を背景に農民の生活、恋愛などを色彩フィルムでリアルに描く。この年のキネマ旬報その他各種コンクールでベスト・ワンに推された。(昭和32年3月4日封切り) また亀井文夫の作品も昭和32年に朝日座で上映している。原水爆実験を告発した「世界は恐怖する」。 朝日座三代目の布川雄幸氏が、二代目の義雄氏から「お前の好きなようにやってみろ」と作品の選択をまかされた最初の企画であった。 大映「赤胴鈴之助」「母」「氷壁」「忠臣蔵」を上映。そして水戸光子の清楚で慎ましい日本女性の理想的魅力を開花させた松竹「暖流」を。 33年には大映「第五福竜丸」。 私自身の記憶では、30年代に見た映画で最も早い時期の作品は「月光仮面 魔人の爪」だが、これは昭和34年のことである。 月光仮面の原作は川内康範。戦後の2年間、いわき市に暮らしている間、文芸雑誌「文祭」を発刊。浪曲台本などを書いていた。第一回福島県文学賞を川内範士の名前で受賞。映画化の脚本も手がけた。月光仮面は少年マンガだが、戦後最大のヒーローとなる。テレビで評判が高くなるとストーリーは換骨奪胎だが後継の「七色仮面」や、「風小僧」ともども劇場でも公開された。 月光仮面に子役で出演していた原國雄は、父親が東映プロデューサーだった関係で小学生の時から「母水仙」「少年探偵団」などに出演していたが、中学生のときに疑問と限界を感じて引退。43年に早大卒。福島テレビのニュース・キャスターとして活躍している。(「アサヒグラフ」子役特集より) 「モスラ」「世界大戦争」などは37年。「太平洋の翼」は38年。これらは東宝作品だから原町中央劇場で上映。 松竹大船の「山河あり」というハワイの現地ロケを刊行した大作日系二世をテーマにした作品は37年、原町文化劇場で上映。
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