進駐軍兵士も訪れた旭座
 戦後、原町に進駐していた米軍兵士たちも、原町の映画館を訪れた。昭和23年から原町郊外の桜井の原町無線塔の塔下にレーダー基地が建設され、昭和25年には朝鮮戦争が勃発し、原町空軍は最前線になった。対空機関砲が備えられ、兵士たちは防塁に囲まれたガンピットに配置されて緊迫のうちに訓練を重ねた。そして休日になると、気軽にダウンタウン(盛り場・繁華街)に繰り出しては、異国日本の田舎町を歩き回った。好奇心旺盛な米兵たちは路地裏の朝日座にも足をむけた。朝日座の歴史について本を書いている、と手紙に書いたら、元原町空軍基地に勤務していたチャールズ・ローランド氏(カリフォルニア州モデスト市在住)も、その時の記憶を回想して返事をくれた。 I think I attended few movies in 1951-52 at the Asahiza movie House.It had no chairs on1y tatami mats and a few benches to sit on and it was very o1d. They had two movie houses in Haranomachi;one was the Asahiza, and the other was a new one having seats,down by the train station.
「1951年(昭和26)から52年(昭和27)にかけて、朝日座というムービーハウス(映画館)へ何回か映画を見に行ったことがあります。そこは椅子がなくて、わずかにベンチがあるだけでほとんど畳だけでした。そしてとても古かった。原町には二つ映画館があって、一つが朝日座、そしてもう一つ別な館が駅から降りてすぐそばにあって、新しい館で(中央劇場か)座席式だった」と。1995年8月18日付手紙。  原町映画劇場(のちの文化劇場、原町シネマ)は駅から、少し歩いた場所にある。ローランド氏が、駅から降りてすぐの所というのは、駅近くの洋画專門館のセントラル館(中央劇場)のことだろう。ローランド氏は、駅前の映画案内の看板を撮影しており(カラーのスライドまである)その中には、朝日座、原町映画劇場、セントラルの三館のポスターが貼ってある。ローランド氏によれば、このカラースライドは昭和28年の写真撮影。 朝日座では「続馬喰一代」25日から3日間「母の山脈」22日から3日間とある。この当時には、朝日座では3日ずつの一本立てだったようだ。残念ながら月は分からない。 原町映画劇場では「モロッコ」「遊侠一代」23~24日「ママの青春」「風雲七□峠」21~22日という邦画と洋画の組合せを上映。2館とも同じ看板に掲示してあるが、後発の中央劇場は単独に別な掲示版を建ててポスターを掲示している。すべて洋画。「荒野の決闘」21~24日「ヴァレンチノ」25~27日「会議は踊る」28~30日。  面白いのは邦画を掛けている原町映画劇場と朝日座の方が、ポスターの貼りかたが右から左へという順序で、日程もその順になっている。セントラル(われわれは中央劇場と呼んでいたが)では、さすがに洋画専門館らしく左から右への貼り方なのだ。戦後の、洋画への傾斜と欧文文化の傾向が如実に現れている。朝日座はとにかく邦画専門館。セントラルは洋画専門。その間をゆくのが原町映画劇場という三者三様の行き方がうかがえる写真である。  もう一人の原町基地の進駐軍兵士ディーン・ハウリー氏(ミズーリ州クリントン市)は昭和27年の野馬追祭の頃に撮影した、新築されたばかりの原町映画劇場の写真を送ってくれた。写真の中には御幣が飾られており「野馬追・歓迎原町役場」という文字の入った駅前の自由の女神像の写真と一緒なので、これが野馬追の時の写真だと分る。 看板から上映映画が「アジャパー天国」花菱アチャコと横山エンタツのコンビの喜劇。「零号作戦」「妻」という組合せだ。10~11日と日程が書いてある。「妻」は東宝作品。原作林芙美子。脚色井手俊郎。演出成瀬巳喜男。撮影玉井正夫。主演上原謙、高峰三枝子、丹阿弥谷津子、三国連太郎。「めし」「夫婦」に続く成瀬演出は、愛情の破綻から家庭の破壊寸前にいたる夫婦の危機を客観的に描く。上原の情人になった丹阿弥好演。(昭和28年4月29日)  昭和28年の福島民報の野馬追広告に中央劇場の上映映画は載っている(「戦後の原町で上映された映画」を参照)が、原町映画劇場のものは、ハウリー氏の写真から判明した。朝日座はむしろ、純粋な邦画上映館だった。進駐軍兵士にとっては、他の洋画を上映している映画館の方になじみ深い。昭和28年の野馬追で何を上映したか不明だが、邦画だったことだけは確かだ。

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