相双地方の映画館ラッシュ
戦後はそれぞれの町に、新しい映画専門の上映館が誕生した。たとえば相馬には中村中央劇場、メトロパレスなど3館がオープン。  昭和26年8月6日民報に今井正監督作品「どっこい生きている」(新星映画・前進座)の広告が載っており、福島国際と中村町中村座での公開予定を報じている。「どっこい生きている」のは、中村座そのものの存在を意味していよう。明治以来の芝居小屋である。戦後の一時期まで、映画を上映して存命していたことがわかる。昭和51年に相馬映場が出来たが、間もなく閉館。 小高座という芝居小屋も昭和30年代まで、小高劇場と改名して映画を上映して生き残っていた。小高国際劇場は、昭和32年に新築開館した。 鹿島劇場は佐藤定喜氏経営。興行組合長などもした。中村座と新開座は戦前からの館だが、戦後に仙台の渡部徳氏が中村中央劇場を駅前に建設。しかし支配人の都合で短命に終わった。  原ノ町旭座(朝日座)、原町中央劇場(新設)、原町映画劇場(新設)、鹿島座、小高国際劇場(新設)、小高座、中村座、新開座、中村中央劇場(新設)、中村メトロ(新設)、浪江中央劇場(新設)、浪江座、長塚亀楽座(双葉)、新山会館(双葉・劇場)、大野劇場(新設)、川内劇場、夜の森劇場(新設)、富岡劇場(新設)、竜田劇場、木戸劇場(新設)、久之浜劇場(新設)、四倉国際劇場(新設)、請戸劇場(新設)と15館が新設、改築改造などで誕生した。最盛期の合計は23館。これらはすべて閉館した。 上記の23館は浪江の島田有造氏が「浪江近代百年史」に「浪江の映画史」として題する回顧文の中に掲示しているもので、島田のかかわった四倉国際をも含む。現在はいわき市に含まれる久の浜は双葉郡に属していた。久の浜劇場は新妻次男氏経営。川内劇場は船引や富岡、大野、浪江などから、出張して臨時興行を担当していた。 長塚亀楽座は昭和24,25年の頃建設。島田有造氏が父親とともに経営していた。うどん工場を買収して改修し芝居も出来る小さな劇場にし、長塚村役場の向かい側にあった。 大野座は旅館経営者の井上という人がやっていた。戦後、大野駅から離れた場所の大野会館(大野劇場)という館を中里林三氏と鈴木岩雄氏が共同経営していた。これは大和館として知られる映画館のこと。  (島田有造氏談) 請戸劇場は戦後に建設され昭和36,37年頃に閉館した。小川和男氏から坂本八十松と志賀雄之助の両氏の共同経営に移った。八十松の息子の剛氏、高野昇氏らが技師としてフィルムを回した。中央劇場のフィルムと掛け持ち。戸数400の小さな集落だが、テレビ出現の前だったので娯楽もなく、映画の客の入りはよかった。(坂本自転車店による)  高田昇氏は小高国際を振り出しに12年ほど勤めた。行人社チェーンの総支配人として東京でのフィルム選定やフィルムの発送や手配など。夜ノ森劇場は六芳苑向かいで元町長の半谷六郎が経営。富岡劇場は昭和23年に焼けた富岡座のあとに新築。神谷豊次郎から浪江町の行人社吉田氏の経営に移り、さらに常葉劇場の渡辺一成氏が買収。現在も建物がそのままに残っている。 楢葉町の木戸劇場(木戸ロマンス座)の経営者は福田氏。竜田劇場は高野春雄氏が経営。楢葉町史には竜田劇場の写真口絵が褐載されている。  昭和27年の映画年鑑には次のような館が所載されている。
館名 所在地              オーナー 支配人 広野劇場 双葉郡広野町大字下浅見川桜田101   杉田秀雄 杉田秀雄 浪江座  同 浪江町権現堂         島田亀次郎 島田亀次郎 標葉劇場 同 標葉町新山      田中ヨシ 高橋常 中村座  相馬郡中村町袋町21      畠山潔  畠山昌 新開座  同  中村町      和田敏男 山田正一 小高劇場 同 小高町南小高      石川弘  梅田政治 原ノ町映画劇場 同 原ノ町      神谷豊次郎 神谷豊次郎
広野劇場は広野駅前通り駅から5分ほどの場所に今も外壁だけは残っている。年鑑に杉田とあるが、正しくは松田秀雄氏の経営。昭和22年から42年まで経営した。初め小名浜の江名からフィルムを取り寄せたこともあるが後に浪江の行人荘から回してもらった。標葉劇場というのは、双葉町が誕生する以前の新山町の劇場なので戦前に新山会館と呼ばれていた館であろう。新山会館の株主は白富士という銘柄の酒造家富沢氏という人物で、島田親子は年間800円支払って経営していた。島田は相双の映画館の東宝、大映、日活、新東宝、松竹、東映の六社の邦画フィルムを一手に扱い、南は四倉国際まで島田経営のチェーン館を中心にやりくりしたという。(島田有造氏談)

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