戦後の映画愛好会
福島市 高橋圭子の回顧

〔昭和25年に発足した映画愛好会のことがある。戦後の自由な精神や文化は田舎町にも及び、私たち若者は知識欲に燃えていた。その頃、今の一小前に公民館が設置されて成瀬高館長が各種講座を開設されており、向学の士が集まっては活発な集会をもっていた。洋画が輸入されようやく大衆化してきた頃で、ある日「キネマ旬報」の話題に花が咲き、「良い映画を見たい」ということになった。発起人としては会長に推された管野氏、ほかに古山、大島、加藤、管頭、志賀、須藤、鈴木、私(女性三人を含む)などが思い浮かぶし、成瀬先生や原高の多田利男先生のご助言を得ていた。
当時は朝日座と原町座の二つがあったからまず両座を訪ねて洋画上映をお願いしたが、初めは配給系統や営業成績の問題があったらしかったものの、やがて実現をみるに至った。館と交渉のうえガリ版の割引券を作り会印を捺して観客の勧誘に努めたりし、会も徐々に活気づいてきた。裸電球と古畳の公民館集会室に例会ごとに二、三十人が屯して、「カメラアングルがどうの」とか「演技がどうの」とか、熱意をこめてよくしゃべったものだった。邦画では原節子の全盛時代で、「晩春」「麦秋」など一連のものがあったし、洋画ではシャルルボワイエ、ダニエルダリュウ、ビビアンリイなどが私たちの目を開かせた。〕(50年記念誌)
「晩春」「麦秋」は小津安二郎の秀作。昭和25年、朝鮮戦争が勃発。レッド・パージの年でもある。映画界からも百人をこえるパージがでた。各社から解雇された映画人がやがて独立プロで活躍するようになる。東宝・松竹・大映・新東宝・東映の5社系統のほかに、新星プロ、近代映画協会、スタジオ・8・プロなどの独立プロ作品が加わり個性的監督の仕事が注目された。
翌年の昭和26年には黒沢明の「羅生門」がベネチア国際映画祭でグラン・プリを獲得し、海外への窓をひらいた。

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