はじめての朝日座 屋代つる代
戦時中、娯楽は一切不要であった。
戦後、初めて朝日座を知った。空襲の恐れの無くなった戦後の日々が続き、極度に消耗された心身は飢餓に喘いでいた。学問、芸術、戦争に直接結び付かぬ文化全てが長期間否定されていた。鬱屈した時代の反動でもあったのか。ようやく取り戻した夜の灯の中で、やっと修理に成功した久方ぶりの鉱石ラジオから、「りんごの歌」を聞いた時の驚き、歓び。東京の変化から取り残された疎開者の不安も混じえ、娯楽が復活している現場に率直に心はふるえた。
まさにそうした時であった。当時、母はだれに教えられたのか、何をやっているのか、全くわからなかったが、飢えている私には何でも良かったのだ。
朝日座の前に来ると、何本もの色褪せた青や黄色や赤の幟が林立してゆれる中に、一段と丈長の数本に、座長らしき女の名前が書かれてあり、景気が良かった。私はここで初めて、きょうの出し物がいわゆる女剣戟であることを知った。そういう下町らしい世界に触れたことのない私には、これは物珍しかった。下足番に下駄を預け、古びたスノコを踏んで中に入ると、足許の薄暗い室内に所々に裸電球が燈っているのが、いかにも地方の劇場らしい体裁で、侘しかった。人いきれのする程詰まった場内を見ると、そこは一般席でゴザが敷いてあり、左右に一段高くなった桟敷があって、格子型の手摺りに並んだ人々は身を斜めに構えていた。花道があったかどうかは解らない。すでにどこも一杯で、母とうろうろしてようやく左手桟敷の後方に坐った記憶がある。
しばらくして挨拶に出た座長の名前も、今は既に記憶は無い。後年、大江美智子や浅香光代の名を知ったが、それでもない女だった。だが、浅香に似て下膨れの、しかし、きりっと締まった顔立ちで、年増らしく、貫禄は十分だった。上演された出し物の名も筋も覚えていない。しかし、やくざ仲間の義理しがらみ、種々の入り組みがあって、女侠客である彼女は当然、波瀾の中に巻き込まれていく。
ある秋の夕暮れであった。長い髪に立縞模様、黒襟掛けた粋な着物姿で彼女は止むなき用事のため外出し、相手方の卑怯な待ち伏せに会う。銀杏の大樹の下、悪役親分との丁々の台詞の遣り取り。型どおりの身のこなしがあって、五、六人の荒くれに取り囲まれた彼女は遂に絶体絶命、右掌を銀杏の幹に押し付けられ、最後の返答を迫られた。その時の彼女の、身を削るような啖呵。観客は、彼女の吐く日本的正義の台詞に痺れた。次の瞬間、発止と下された短刀は、無残にも彼女の右掌中央を貫いて、銀杏の幹に釘付けになった。乏しい照明の中にはらはらと散る、無心の黄葉。笑い罵りながら引上げて行く暴徒の群れ。滴る鮮血と苦痛に耐えながら、不屈の誇りを守り通した彼女の雄雄しさ健気さに、観客は涙して酔い痴れた。初めて行った劇場朝日座での強烈な印象であった。
大衆演劇を知らぬまま、漠然と軽視していた私は今、めりはりの効いた時代劇の演技を女役者の上に見て、尊敬さえ感じた。その場面が余りに強烈、無残であった。その後の記憶は全くない。しかも、彼女は二度と私たちの前に現れなかった。
戦後の一時期。国民みな飢えに苦しむ中で、演劇人のみならず、芸術、文化復興の意欲に燃える人々は、米に肉体の、表現に精神の充足を求めて、進んで地方を回った。計らずも、それが地方に灯をともす事にもなった。朝日座はいち早く、その一翼を担ったのであったろうか。(元原町1中教員)
haranomachi downtown stories 初出・「わたしと朝日座と映画」

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