朝日座での学芸会
昭和23年中の福島民友に、相双地方の劇場の名が登場する。たとえば2月15日「冨岡座焼く」という記事。 4月14日「小高羽二重祭の第二会場は小高座」 4月24日「浪江座で素人演芸大会、浪江婦人会の主催で」 4月28日「原町のメーデー夜は旭座演芸会」などだ。これらの古い明治大正からの劇場は、もちろん映画を上映可能であったが、娯楽の少ない時代にあって、町民による芝居上演や、各種の行事の会場として活用された。 そんな中で、昭和23年当時、原町中学校では朝日座で学芸会を行っている。担当した木幡豊氏はこう回想する。「朝日座で学芸会を開こうという提案は私がした。」 〔お粥かサツマイモを主食にするので、学校に弁当を持参できない。そこで授業は、午前と午後に二部交替する時代だった。そんな状態では学芸会でもあるまいと考えられるが、どういう経過か運動会も学芸会もやった。すなわち卒業式も近く三月十日に、朝日座を二日間借り切って学芸会を盛大に挙行した。その上、生徒の芸能を入場料を頂いて公開、結果は鮨詰の満員だったという嘘のような学校行事がおこなわれた。原町中学校の名物学芸会である〕 〔朝日座で学芸会を開く理由は、小学校の講堂が教室に転用されていて使えないということ、「貸してもいい」という劇場側の内諾があったからだと思う。そこで賃貸料をどう捻出するかにあった。結局、PTAにお願いするという形だが、実質は生徒一人に三枚ずつの入場券を配り「買って貰ってこい」と一方的な方式。売れる自信はあった。当時の人々はこういう催しに飢えていたからで、一枚二十円ぐらいだったと思う。税務署には免税にして貰った。当時、映画は四十円、先生の月給は四百円の時代である。劇場には三万円ぐらい支払ったようだが資料がない。
◇原町座という芝居小屋 「この劇の主役たる母役に、原町座のお嬢さんの神谷勝子が起用された。遅れて稽古に入ったため稽古場がない。「私の家でやりましょう」と原町座で立稽古から始めた。原町座は神谷さんの劇場で、当時は住居も兼ねていた。/原町座といっても若い人は知らないと思う。本町のヤマトウ商店東に倉庫があるが、そのさらに東側に大きな劇場があった。今は取り壊してないが、昔は原町座といい、活動写真時代は神谷キネマの幟を小学生に担がせ、クラリネットの楽隊が駅通りまで客寄せに歩いていた
◇ プログラムを再現すると 記憶というものは歳月とともに風化して埋没する。活版刷りのプログラムがあったはずだが手もとになく、記念のアルバムだけが残っているので、それで憶測すると次のような種目が上演された。 英語劇 「月光の曲」 演出 清水政雄、屋代ツルヨ 人形劇 「大きな大根」 演出 玉川一夫、大和田光明 童話劇 「白い魔法」 演出 屋代ツルヨ 舞踊劇 「シンデレラ物語」 脚色演出 木幡豊、振付杉照子 創作劇 「祖国を興すもの」 創作・演出 木幡豊 この外、一年生の劇があったが、思い出せない。また舞踊やダンスも上演された。 私はその後十年間以上も創作劇を上演しているが、この「祖国を興すもの」がお粗末ながら処女作に当るわけだ。〕 この原町中学校の学芸会は昭和26年まで続き、新校歌も昭和24年に朝日座で発表されたという。 「当初、学芸会は昼だけ二回公開するわけだったが、夜に劇場を使わないのは勿体ないと、昼夜四回上演と欲張って幕をあげた。予想通り夜の部には観客は殺到し大盛況だった。未熟な中学生の芸能にこれほどまで集まっていただくとは、出演者も感激して熱演した。当時は娯楽に飢え、手づくりや自己主張が大事にされた時代だが、なにより束縛がなかったことが可能性の花を咲かせたと信じたい。この朝日座での学芸会は昭和26年まで続いたが、深夜の学芸会などの批判もあって、戦後の狂い咲き朝日座学芸会は幕を下した。〕(60年記念誌) 町の映画館(劇場)で芝居をやったというのは、お隣の小高町でも同様で、小高町の演劇青年たちも同時期に小高座でアマチュア芝居を上演していた。 原町に「体育館」という名の、市民会館が出来たのが昭和35年のこと。苦肉の策で体育館の補助金で公会堂を建設したのだ。原町の演劇青年たち「劇団どんぐり」は、さっそく昭和36年1月7日に、市体育館で公演を行っている。
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