疎開児童のため映画差し入れ 「加藤隼戦闘隊」を無料上映
昭和20年1月19日民報。 〔◇〇〇航空隊では飛行場の補修工事に協力してもらった御礼にと十日原町座で映画会を催しマレーの虎、加藤隼戦闘隊、日本ニュース等を町民に無料で公開その労をねぎらった、又東京都淀橋区長崎第三国民学校疎開児童が疎開して町のお世話になってとその御礼から椎名町町会長福島堂則さんの一行は愈々東京からの映画班を伴って来町十二日原町国民学校児童並に町民のため原町座で映画会を催した〕
「マレーの虎」は、正確にはマライの虎。ハリマオと呼ばれた日系マレー人谷豊を反英闘士の主人公に仕立て上げたスパイ英雄もの。昭和17年の作。「加藤隼戦闘隊」は昭和19年の作品。この映画が原町で上映された昭和20年1月には、陸軍航空隊のうち第65戦隊が雲雀ヶ原飛行場に配備され、3月までに30機の最新型の陸軍一式戦闘機「隼」三型が結集し、アメリカ軍のレーダーを想定して薄暮攻撃訓練を行っていた。飛行場で作業奉仕する人々は日常的に目撃していた。 ところで、原町に疎開していた児童たちの送り出し手である長崎国民学校について、豊島区郷土資料館に問い合わせてみたところ上記の記事の誤りも分かった。 この記事では長崎第三国民学校となっているが、同校は山形県が疎開先で、原町および小高に割当てられていたのは第四国民学校であることがわかっている。(福島県には豊島区からは他に中村と鹿島に長崎第五国民学校が疎開している) また淀橋区(のちの新宿区)とあるのは、豊島区の間違いである。長碕地区は確かに淀橋区と豊島区の区境にあったが、豊島区側である。 長崎第四国民学校は、4月13日の空襲で全焼し、戦後そのまま廃校となっている。 6月、空襲警報に晒されると、原町国民学校の教飾たちの判断で慌ただしく疎開児童たちを土湯温泉に再疎開させた。
昭和20年(1945)の映画事情
2月25日、ついに決戦非常措置要項が閣議で決定。高級興行場(大劇場)は3月5日から閉鎖された。日劇では風船爆弾が製造され、福鳥県小名浜海岸から打ち上げられた。 3月1日東京空襲で映画館45館が焼失。 4月12日に、郡山が空襲され、東北からも多大の犠牲を出した。 7月10日、仙台空襲。北の杜の都仙台では5館の映画館が焼失。原町からも北の空が真っ赤に燃えるのが見えた。 戦災による焼失映画館 アメリカ軍の爆撃によって焼失した映画館は、全国で513にのぼる。 〔映画配給社を改組した映画公社の調査によると、空襲で焼失した映画館は五百十三に達した。その内訳は、東京百十八、大阪五十一、名古屋三十三、神戸二十五、横浜十九、その他の都市百六十七である。これを罹災の時期で分けると、一九四四年十一月二十九日の東京最初の夜間空襲に始まって、四五年二月末までに焼失した館は東京五、名古屋四だけ。それが三月には一躍百十二に増えるが、被害はすべて前記の六大都市に限られている。 四月から六月十五日までにさらに百三十五館が罹災するが、それも六大都市とそれに隣接する川崎と尼崎の範囲を出ない。 ところが、六月十七日からは目標がはっきり地方都市に切り替えられ、大阪の二館以外は、六大都市の罹災館はなくなり、それから終戦までに地方都市の映画館ばかり二百五十五が被災している。その中には一日の空襲で映画館全部を焼失した都市が、広島の十四をはじめ、豊橋七、高松七、水戸六など、実に二十五都市におよんだ。 残った映画館は終戦の放送のあった八月十五日から一週間、全国いっせいに興行を中止した。〕(清水晶「戦争と映画」社会思想社) 進駐してきた連合軍最高司令部の占領政策の一環として、戦前戦中の軍国主義的な映画の破棄が命令された。 10月10日、映画制作禁止条項を指示。11月には、反民主主義映画225本が焼却された。しかし、戦後の占領軍の検閲には、日本映画最高の傑作ともいえる「無法松の一生」の中の、平家の公達が青葉の笛を吹く場面が軍国主義を連想させると言ってはハサミを入れるような指示もあり、日本人の文化と心情を理解しないおよそナンセンスな判断もあった。これは日本の軍部が映画全般を統制した介入と立場は異なれ、言論統制という野蛮行為であった。 10月11日、松竹はいちはやく戦後第一作の「そよ風」を封切った。