敗戦までの日々

 昭和20年1月23日民報。
「映画館整理 県下で七館」
〔県下の映画常設館二十五館のうち七館が閉鎖される、これは最近映画界に於ける生フィルムの減少から映画の配給が付則を告げ各常設館の経営が困難になることから整理を行ふものである
福島市大福座、郡山市新興館、若松市映画劇場、東亜館、新興館、白河町白河劇場、須賀川町須賀川座で
このうち白河劇場、須賀川座、若松新興館は大衆演劇に転換するなほ現在県下の観覧料金がまちまちなのでこれを機会に協定料金が決ることになる〕

昭和20年当時、原町高等女学校の教諭であった星千枝さんは、回想の中でこう語っている。
〔ある先生が「今日は旭座の映画に連れて行くぞ」などと言われて生徒たちは大喜びしていました。あの当時ですから、そんなに面白い映画などなかった筈です。軍国主義的な映画だと思いますけれども、当時の映画は唯一の娯楽でしたから、せめて今夜だけ空襲警報が鳴らないようにと祈っていたのです。〕
つまり旭座は、空襲警報の鳴る昭和20年にも上映はしていたということだ。
2月8日民報に「仙逓映画会」の記事がある。
〔仙逓局では第一線通信戦士激励のため各地で映画会を開く、開催地は左の通り、本宮・・・原町(十七日)〕
仙台管内の郵政職員のための慰安映画会である。会場は不明。この前日に、県内初めての犠牲者を出した原町空襲があった。
昭和20年の短い間、特別攻撃の訓練のためわずか二ヶ月しか原町にいなかったものの八牧通泰氏は、旭座をのぞいたことがあるという。
「雨の降るような(傷だらけの)古いフィルムばっかりだった」と記憶している。雲雀ヶ原にあった陸軍飛行場では、毎日のように原町に通う学生生徒を含む町民の手で滑走路の整備・修繕その他の勤労奉仕が行われていた。その返礼に、飛行場主催の映画会が、旭座とは別の原町座という芝居小屋で行われている。また東京から原町へ疎開中の子供たちのために、送り出した側の東京豊島区の町内会長が映画班を派遣して慰問上映会を行っている。

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