トーキー原町に来る
高橋圭子(旧姓松浦)さんは、50周年記念誌に、原町にトーキーがやってきたときの記憶を寄稿している。高橋さんは朝日座の設立発起人松浦の長女である。
「朝日座にトーキーが来た頃」
〔昭和初期、私の生まれた頃、すでに朝日座は在った。原町駅がまだ貧弱な木造の頃で、低く小さな家並の中に朝日座はどっしりと大きな構えであった。本陣山から眺望する時それはいっそう明らかで、無線塔と阿武隈山脈にはさまれた町を見下ろし、幼い指で大きな建物を探すのだったが、小学校と消防署を見つけたあと、私はかならずわが家の屋根と、その北ちょうど一直線上に黒く大きな朝日座のトタン屋根を見出したものだった。
ところで、幼時のおぼろげ気な記憶の中で私は無声映画を観たことがあるように思う。館内には弁士が舞台の左側に陣取っていたようで、その前に置かれたカンテラ形の一灯と、鮮明とは言い難い画面のほの白さのほかには、蔵のように暗く桟敷席が広がっていた。
だがまもなく、その薄暗い記憶は私の内で一転し、青空にひるがえる真っ黄色な幟に変わる。その幟には「トーキー時代来る」と黒い大きな字があって、東一番丁と呼ばれた館の入り口の道路におよそ十本ほど、太い竹竿に支えられハタハタと風に鳴っていた。幼い心に、その字が示す文化的な意味はわからなかったが、またその幟は別な色だったかも知れないのだが、私はなんとしても真っ黄色であって、そこだけが鮮やかな華やいだ風景の記憶は私の脳裏に焼き付いて動かない。〕
それでは、原町にトーキーがやってきたのは、いつであったのか。
「浪江町近代百年史」によると、昭和6年には浪江にトーキーが登場した、としている。
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