eimatsu戦時中の旭座館主門馬永松

●原町映画劇場の誕生
明治の頃に出来た芝居小屋の原町座はすたれ、戦前は衆楽園と呼ばれて秋市やサーカス相撲巡業などが行われた広場に、新たに戦後になって神谷豊次郎の手によって原町映劇という映画館が誕生した(のち渡辺徳氏のもとで原町文化劇場、さらに布川氏のもとで原町シネマと改名)。昭和27年1月8日の民報に「原町映画劇場」の正月広告が載っている。「原町映画劇場」の文字の隣に
「朝日座・共同興行社神谷電五一六
丸川電一一六福島県相馬郡原町」
という表記になっている。原町映画劇場(通称原町映劇)は、戦後の映画館ブームを告げる新館オープンとして、町民に歓迎された。場所は現在の栄町共栄会駐車場。ここは、かつて町民いこいの広場であった衆楽園の一角。戦前の町一番の歓楽街であり、遊郭もあり夕闇に人を誘う太鼓の音が流れ、また収穫期になれば名物の原町秋市の露店も見世物小屋などがたちならび、サーカスが興行されて賑わった場所である。昭和26年中にはすでに稼動していた。原町座と旭座オーナー神谷氏が建設した。
昭和27年2月27日の福島民報の松竹広告に並んだ県下の系列館を掲げると、福島松竹、平館、郡山映劇、若松銀星座、喜多方銀星座、自河劇場、須賀川座、小名浜金星座、三函座、綴映劇、原町朝日座。昭和26年の表記が原町旭座。昭和27年が朝日座。すなわち、旭座が朝日座になったのは、昭和27年からである。この頃、神谷と丸川つまり布川一家の共同経営で旭座は経営されていたことが分る。27年の広告では松竹と大映の双方の広告に系列館として原町朝日座の名がみえる。

●新生「朝日座」のスタート
朝日座は、旧経営陣の門馬永松代表から65万円で布川氏へ譲渡された。大正12年に旭座が建設された経費は1万3千円。貨幣価値は30年を経て50倍になる。「終戦後、映画ブームの到来の予感はあったが、旭座の旧株主たちは開館以来苦難続きのため再出資して改装工事を進めることには消極的で、布川の譲渡申し入れによって全員承諾となった。直ちに高藤建設の請負で着工した。そのとき、名を朝日座と改めた」(布川雄幸よりの手紙2008.9.14.)
朝日座は大映、東映を、駅前セントラル劇場が松竹と東宝、洋画を、原町映画劇場が新東宝、日活を、系列館として上映し集客を競った。
この時の布川家は二代目の義雄氏の経営。東北電力社員から興行師に転身した人物。カメラ撮影が趣味で、多くの写真を遺している。
平成18年の町村合併で、原町市は平成18年の町村合併で、南北の小高と鹿島の両町を併呑して南相馬市となった。初代市長には布川雄幸氏の甥の渡辺一成が就任した。平成20年8月、南相馬市立博物館で「朝日座の軌跡」という企画展示会が開催され、朝日座で上映されたポスターや、劇場時代の小道具なども展示された。入場者1,330人とかで、満足というべきか、すべてこれで終わりという気分です。展示のすべては博物館のスタッフで、初代実翁の芝居道具が出されて満足でした」
(同前)。この芝居道具の一部は、栄町商店街の夏祭りで原町シネマのポスター展示スペースに展示された時に見た記憶がある。博物館には、婦人会主催の興行プログラムなども展示された。
会期中に布川氏の体験談講話も行われた。三代目雄幸氏は地元石神村の農家の出身で相馬農校を突業して宮城県の農業技手となったが、映画への情熱が見込まれ布川家の婿養子に入り興行師に転身した。
昭和32年から二代目義雄から経営を引き継ぎ、上映したすべての作品名を記録したメモをもとに、キネマ旬報などで監督、撮影、音楽、出演者を調査し、「朝日座全記録」に興行状況を克明に掲載している。

渡辺徳と原町文化劇場

原町映画劇場は、昭和26年に神谷豊次郎が建設したが、のち渡辺徳氏の経営に移り原町日活=原町文化劇場として継続。渡辺は会津若松出身で、昭和22年にそれまで歌舞伎や演劇の興行から映画に転じて仙台市立町に東北一の大映画館「東北劇場」を設立。白石市内など6館のほか福島県内3館の映画館を経営。昭和35年に原町映画劇場を入手し、原町文化劇場と名を変えた。昭和54年にこれらを一斉に閉館。東北劇場跡地に駐車場を経営した。原町文化もこの時の昭和54年に閉館。直前まで、山形県出身の長沢氏が支配人として経営した。上映最後の日には、アラン・ドロンの「冒険者たち」がかけられ、場内がビデオ撮影されていた。劇場は布川雄幸朝日座社長が買取り、さらに原町シネマと改称して10年間最後の興行を行い、平成元年5月に消滅。駐車場になった。渡辺徳氏も平成元年1月14日に没した。
原町シネマは朝日座を補完する館として子供向けアニメや成人映画、時に特別企画のヨーロッパ名画なども上映した。閉館した原町シネマは取り壊されたが、わずかな一時、木戸の上に燕の巣が最後の住処にした。
●セントラル劇場の誕生
そして昭和27年5月2日に、原町第三の映画館館、セントラル映画館が開館した。昭和27年5月3日福島民報の総合版の「豆ニュース」に、次の記事がある。
〔【相馬】原町にセントラル映画館原町駅前にセントラル映画館が出来、二日から開館した。相馬には珍しく個人イスで階下は二百八十一、階上は八十一、同町の映画館は原町映画劇場と朝日座と合せてこれで三館となった。〕たったこれだけの記事だが、映画百年の年に、百年分の新聞をしらみつぶしに調査してこそ見つけ出した、わが町の活動写真史の大事な記録である。セントラル映画館は、東宝の人気映画と洋画を上映して若者の人気を集めた。記事の下には「祝独立日本」などという広告がある。前年に講和条約を締結し、翌年の5月から条約が発行。ようやく「独立主権」を認められた、そんな時代だった。県内各地の戦後の映画館に「○○中央」という名前が多い。戦後アメリカ映画を供給する会社がセントラルといったことの影響だ。セントラルあるいは「中央」という命名には戦後の響きがあった。昭和27年に発刊された「昭和26年度原町町勢要覧」の映画劇場の項目によれば、
原町映画劇場   神谷豊次郎 電話516番
朝日座      神谷豊次郎
セントラル映画館 半沢武雄 電話404番
の名が残っている。三館揃い踏みの最古の記録だ。セントラル映画館(原町中央劇場とも呼んだ)は昭和27年5月に開館したのだが、当時の「要覧」は、昭和26年度の分は26年度が終了してから26年度すぺての続計を掲載するために、翌年の27年になってから発行したので、実質的に27年度に開館した館まで含んでいるのであろう。26年度要覧に載っているからといって26年に開館した訳ではない。
昭和23年から26年にかけて、原町中学校の学芸会が朝日座でおこなわれた。お隣りの小高町でも同様で、小高町の演劇青年たちも、戦後の同時期に、小高座でアマチュア芝居を上演している。原町に「体育館」という名の、市民会館が出来たのが昭和35年のこと。苦肉の策で体育館の補助金で公開堂を建設したのだ。原町の演劇青年たち「劇団どんぐり」は、さっそく昭和36年1月7日に、市体育館で公演を行っている。

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