トーキーは東北弁を殺す
もの言ふ写真がやってきた
昭和4年から5年にかけて、日本にもトーキー映画の時代がやってきた。郡山出身の大谷日出男は時代劇スターとして昭和初期にデビューしたが、エロキューション(セリフ回し)に難があって、東北弁ゆえにトーキー映画に乗り切れずに銀幕を去った。また日本特有の弁士たちもまた「喋る映画」の出現で失職していった。
朝日座開館の50周年を祝して記念誌が発刊されたのは昭和46年のことである。この頃はまだ、戦前の朝日座で働いた弁士や楽士が生きていた。彼らの回想、また、朝日座の改築を手がけた高藤義春氏は、特に詩情あふれる文章をこれに寄せている。
昭和初期の旭座 先の尖った大きな屋根飾り 高藤義春(高藤建設社長)
〔陽が長い影を落として西の山に近づいた頃、遠くから楽隊の音が流れて来る、街角の電柱に、先に三角形のトゲのある十六燭光の電球がぼんやり灯りはじめると、子供達は家から呼ばれて遊んでいた友達と別れて、家事に忙しく使い走りをする。それは昭和初期の私の町内の夕刻の風景である。私の家は東一番丁の中ほどにあり、長男には田島、渡辺、大熊、広瀬、高野、百井、佐藤各先生が医院を開き、中心商店街本町と背腹をなしており、今の言葉で言う文化の中心的存在であった。
楽の音は渡辺病院のちょうど真向かいの朝日座—-活動写真や芝居その他、町での集会等が行われる大きな建物朝日座—–が客を呼ぶ声であった。
朝日座は当時の町内では一番高い建物で、大きな屋根の東西には本で見る外国の建物のように先の尖った大きな飾りがついていて、遠く本陣山に登り、町の全景を眺めても一番先に目に入る建物であった。子供心にも中に入って活動写真を見たいという欲望を持って、路の両側に大きなのぼりが建ち並んで軽やかな楽の音が流れて来る中で、市川百々之助のポスターを見に、三日に一度は通ったものである。また水谷八重子や東京歌舞伎が来た時は、駅通りまで客の行列が並び、子供心にも驚いたものであった。朝日座は、今でいう公民館、市民会館的な役割を受け持ち文化の中心であり、町民は多少にかかわらず恩恵を受けたはずである。
当時の客席は全部畳敷きで、中央にキの字に渡り板が渡してあり、合間にセンベイや果物や飴などを売り歩くのに都合よく造られており、舞台は廻り舞台になっており、舞台の廻ったのを二回ぐらい見たと思い出される。
満州事変が戦火を開いた時、私は町を離れ修行に旅立った。やがて戦局は拡大の一路を巡り、昭和十六年久しぶりに朝日座と対面した時は、昔の芝居小屋の中にも近代的なものを取り入れて映画専門館のようになり、「続愛染かつら」「熱砂の誓ひ」等田中絹代、李香蘭(山口淑子)などの演技に若き血潮を湧き立たせたのも朝日座の畳の上であった。そして十二月、現役兵として旅立つ朝、朝日座の前を通って駅に向かった。それが朝日座との第二の別れであった。〕(50年記念誌)
「愛染かつら」は松竹大船作品。夫人雑誌に二年間連載されたすれちがい恋愛小説の映画化で、昭和13年に封切られ興行界は他映画を圧して独走の感があった。原作川口松太郎。監督野村浩将。脚色野田高悟。撮影高橋通夫。音楽万城目正。主演田中絹代、上原謙。