「大蛇記映画」 二月十日から公開
過半郡山プロダクションの手で相馬郡内の名所旧路大悲山の大蛇記を脚色した映画は来る一月十日から二日間小高座に於て公開し引続き郡内各町村を巡業、観覧に供する事となつている(昭和4年1月23日民友)

原町の素人劇のサイレント映画「川中島」天覧に 昭和4年

昭和4年原町の民謡振興功労者同和田甫が主役で、その娘婿が監督する「川中島」が昭和4年に製作され、2月に天覧に供したことが話題を呼んだ。これは太陽キネマという会社の五味社長が野馬追に着目し、担当した監督が相馬民謡普及に尽力した岡和田甫氏の女婿であることから、原町でのロケが実現した。これがおそらくは地元の俳優が出演した映画撮影としては初の劇映画であろう。
昭和2年2月24日の福島民報に「野馬追映画を俳優抜きで撮影・甲州軍記の長尺物近く相馬で公開」という記事が見える。
御大典が行われた昭和3年、原町から大挙して相馬野馬追一行が上京して帝都市民を驚かせた。これを見た教育映画専門の太陽キネマ社長五味正智氏が目にとめた。

〔野馬追振興会の岡和田長円氏と某り旧冬中原町及び其の付近に於て野馬追騎馬武者を駆り集め甲越軍記の長尺物近を映画に収め足たるが其出来栄頗る見事にして殊に出場人員一千二百名場面に現はるし上杉武田の両大将を始め下歩卒に至る迄一名の俳優をも用えず何れも相馬武士が之を扮したと云ふ頗る振ったもので相馬藩が多年練りに練った甲州流兵法の奥義魚鱗の備ひ鶴翼の陣、十二段構へから甲、越両将の一騎打ちに至るまで宛然実物を観るに異ならず賢くも去る一六日天覧の光栄に浴したとの報地元に到着したので関係者一同歓喜その極に達してゐるが右映画は東京の大劇場に於て封切をなしたる上地元に於て公開する筈であるが長円氏はこの映画を以て予て計画中の二宮尊徳翁の報徳殿建立の資金募集に当ると云ふことである〕
昭和51年に発見され布川氏の助言で育映社に依頼して16ミリ・フィルムに再プリントして複製を作った。こんにち昭和初期の原町の様子を知る上で大変貴重な史料である。「川中島」は、野馬追の地元で甲冑武具が多数残っているため、これをふんだんに活用しての時代劇である。字幕までついている本格的な作品。再発見時には上映会が行われ、私も実見したことがある。
昭和52年には朝日座で、半世紀ぶりに上映された。上映当時の朝日座の日程表に印刷された文面によると、監督は昭和3年当時、岡和田甫氏の娘婿の日活監督高木喜智氏が当り、岡和田氏が主役の武田信玄に扮し、ほかに家族や地元の有志約30名、それに相馬野馬の騎馬武者約300名が出演し、3ヶ月を費やして完成。翌昭和4年2月16日には、宮中で天覧されたという。制作費は当時の金額で4700円、フィルムは全8巻1516メートルの大作。
〔フィルムは岡和田と親交のあった原町市橋本町の無職高田実さんがあずかっていたが、その後、原町公民館が保管していた。/ところで、当時の出演者は次々と世を去り、いまも健在なのは八人。その一人、お姫さま役で初々しい姿で熱演した同市橋本町、割ぽう「あずま家」の主人菊池はる子さん(六四)は「若いころで記憶が薄れてしまってよくおぼえていない。でも、武田家に行儀作法を見習いに行くお姫さま役を夢中でやったようです。今度、昔の自分が映るというが、若い時の自分を見るのはなんだか怖いみたい」と”期待”と”不安”で待っている。
「川中島」上映では当時、同館で「活弁士・小島翠峰」として活躍していた同市三島町、伊藤義明さん(六四)が往年の名調子を披露する。また活劇調の”映画音楽”はふん囲気そのまま再現するため、昭和初期吹き込みのレコードを使うという。
試写を見た朝日座の布川雄幸社長(五一)は「旧浜街道の松並木の中を騎馬武者が疾駆する姿はまさに迫力満点です。いまのワイドスクリーンの時代劇に勝るとも劣らずです」と絶賛している。〕(昭和52年5月27日民報)

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