大正14~15年 大正時代の活動常設アサヒ座 福島県肖像録の朝日座広告
大正14年に発行された「福島県肖像録」という本には、朝日座の名刺広告が載った。「帝キネ直営アサヒ座 相馬郡原町」というもの。 共同経営なので個人名を出していないのか。この本は鳥取県から発行されたもので、一円か一円五十銭だすと記事を掲載するというもの。当時の福島県内の、そして原町や近隣の、中村、鹿島、小高の名士たちの肖像写真や彼等の商店や会社なども掲載されている。 帝キネ直営、とある。帝キネすなわち帝国キネマ株式会社は大正9年5月に、元・天活大阪支店の経営を担当していた山川吉太郎という人が独立した映画会杜。 大正3年に創立された天活が、大正8年12月に国活に買収されたとき、自分の経営劇場をもっていた山川は合流せず、大阪千日前の天活倶楽部以下8つの映画館と千日前蘆辺劇場以下6つの劇場を有し、大阪市外小坂に小規模な映画スタジオも所有していたので、まず山川演劇商行というのを組織。もっぱら興行経営に主力を注いでいたが、北浜株式界の有力者松井伊助の協力の下に、資本金五百万円の帝国キネマを創立し、山川演劇商行の財産営業権150万円で譲渡し、松井が社長、山川はその專務になった。 山川が天活時代に建てた大阪府御厨29所在の、俗称小坂スタジオでは、彼の経営劇場に出演していた新旧舞台役者が、舞台の合間に声入りの活動写真をうつしていた。脚本は舞台で使っていたものをたいして改訂もせずに使い監督も舞台の時の監督が立ち合った。帝キネ創立当時の小坂の陣容は、撮影所長川口吉太郎(呑舟)。脚本係中川紫平(紫郎)、川口呑舟。監督川口呑舟、辻川修輔。撮影技師村上満麿、藤野泰、河上勇喜、久我範浪、大森勝。俳優伊村義雄一派、久保田清一派、大井新太郎一派、熊谷武一派、嵐璃徳一派。もちろん女優はいないから、女の役は女形が全部それに扮していたという。 帝キネは革新路線を歩み、大正12年3月中川紫郎の監督で、小田照葉夫人が主演の現代映画「愛の扉」が、突如として声色映画の迷妄を破って飛び出し、しかも案外な出来栄えを見せた。 これは興行的にも成功し、次に芦屋に家賃130円の長屋のような家を借りて、ここで女形なしの現代映画専門のプロダクションを設け、松竹蒲田撮影所から監督賀古残夢と、女優歌川八重子を招き、また国活のカメラマン唐沢弘光や、オペラ界から小島洋々、浜田格、鈴木信子、久世小夜子、柳まさ子らの俳優を得て、第一作「森訓導鉄路の露」という即製の時事物を発表。大阪四貫島小学校訓導の殉職美談を当時の新聞記事によって脚色したもの。 続いて第二作「恋以上の恋」が、松本英一の第一回監督作品として封切りされる。 国活瓦解で巣鴨揚影所が閉鎖になったのを利用して、帝キネ東京派を組織し、その第一回作品「父よ何処へ」が大正12年8月31日に初演。 しかし大震災が東京を襲い、帝キネは新作を一日だけ見せただけ。製作途中にあった第二作「寂しき人々」(大正13年)を完成させて解散した。 小坂スタジオからは「修善寺物語」「袈裟と盛遠」「或る敵討の話」「鳥辺山心中」が次々に発表された。 小坂と蘆屋の両撮影所が、1ケ月に14本、63巻の製作記録を作って世間を驚かせたのもこの頃だ。震災で東京方面の映画製作が途絶したが、小坂も蘆屋も帝キネ・スタジオに震災の影響がなく、監督や俳優等のスタッフを揃えたばかりのところで、需要に応じられるだけはこの際つくろうというので日夜を分かたぬ強行製作がつづけられた。 東京派の解散で、シナリオ・ライターの伊藤大輔は芦屋の脚本部に迎えられ「神は赦すか」(大正12年12月6日、大阪映画倶楽部封切)をはじめいくつかの脚本を書いた。(この項「日本映画発達史」による) 帝キネ直営という旭座では、これらの映画が上映されたことと推測される。
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