大正時代の小屋の中から
伊藤義明(元旭座弁士)

 〔よう…愛映家の皆様、特に朝日座ファンの皆様こんにちは。夢のような思い出ですよ。皆様の朝日座が開館して五十年(「私と朝日座」昭和46年刊より)、実に長い年月です。今と昔、変わりゆく世の姿がありありと頭に走馬灯のごとく浮かび出ます。
若き年代の皆様には想像もできないことがいま筆をとる私に新たな思い出となって返ってきます。(中略)
映写機といっても電気を使用するのは電球のみでほかは全部人の手で操作したのです。説明者との合図によって、廻転を早くしたりおそくしたり自由にできます。技士の手ひとつでやるのですから簡単ですよ。
説明者は映写される場面のわきにいて、台本をみながらその人物になった気持で色々なセリフを言います。時には泣いたり怒ったり、笑ったり、場面によっては種々と苦労があります。音楽士も場面に応じて演奏をやるのです。楽器なら何でもやる音楽士は偉いものでした。
映写と説明と音楽この三つがうまくゆかないとせっかくの名映画もつまらない平凡なものになってしまうのです。三拍子そろってこそお客様を心から楽しませるものです。
さて説明者の方にも特徴があって、時代劇によい人、現代劇によい人とあります。私の先輩で今も健在な方がおりますよ。浪江地方で中々人気のあった大森双石(のちに双葉郡大堀村長をやられた)や、宮城県で松本、松井氏等がおります。当時の方は思い出される事でしょう。当地では今は亡き春日小楠氏、小島翠峰「別名」亀ちゃん(これが私の芸名)、また映写技士では亡き森山氏、音楽士では現在大町で釣具店主の小田氏等、昔は相当に名を知られたものです。
お客様にも絶対朝日座びいきの方が多く、見物する場所もきまっていました。とくに思い出すのは接骨院の鴫原の亡きおばあさん、本町の鈴木綿店のおばさん、南町の新妻のおばさん等一度もかかさずに見に来ました。
朝日座は映画ばかりでなく芝居、浪曲、演芸とその時によって開演されました。朝日座の経営者も移り変わっています。
時代は流れて、トーキーが出現してからは説明者も楽士も必要がなくなり、映写技士に転向するやら映画界をやめるやら、はなやかなりし時も夢と消えて、流れ来る文化の波をうらめしく思いました。でも心の隅に、ありし昔の一片を誇りのようにして生きたいと思っています。現在はラジオやテレビであらゆる演芸も見られ聞かれもしますが、大正時代は朝日座に開演される演芸は町全体の楽しい慰安となったわけです。(後略)〕(50周年記念誌より)

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