最初の原町銀幕の恋人は歌川八重子

 歌川八重子は、明治36年(1903年)神戸生まれ。1922年に松竹蒲田からデビューした女優だったが、同撮影所の監督賀古残夢とともに大正12年に帝国キネマに招かれてから花開いた。松本泰輔とのコンビで膨大な主演作を撮り続けた。代表作は「マダム・ニッポン」(1931年・高見貞衛作品)。帝キネは新興の映画企業で、新時代の映画制作に力を入れていた。新興キネマ時代になると、次第に脇役、中年役に退いた。昭和18年(1943年)没。深川ひさし監督は従兄ともいわれる(日本映画発達史)
蒲田の女王と呼ばれた栗島すみ子にそっくりで、帝キネの女王と呼ばれた。
〔歌川は栗島に少し遅れて松竹に入ったが、芽が出なかった。だが帝キネに来ればトップ・スター、出っぱり。/もちろん、よくよく見れば二人は別人。歌川の方が、やはり全体に野暮ったい。それがおそらく松竹蒲田と帝キネの違いなのであり、立場が逆だったら、歌川の方が洗練されていったかもしれない。帝キネの客目は松竹より一ランク下、都会よりも田舎で強みを発揮した。スターの顔は客の好みで作られる。
だが二人の最大の違いは、栗島がトップのまま引退したのに、歌川は脇に回ってからも映画に出続けたこと。繰り上げた演技力で、映画に厚みを与えた大女優である〕(田中真澄「ノーサイド」1995年9月号「キネマの美女」より)
「青い鳥」モーリス・ターナーの印象派的演出は、メーテルリンクのこの象徴劇をバレエ風に美しく表現した。映画の写実主義に致して、一方にこういう運動がアメリカで行われていたことに興味がある(大正9年4月29日、帝国劇場封切)
内務省が映画取締りに乗り出してくるのが大正のこの頃。文部省は映画政策が必要との見地から「推薦映画」を指定することにした。「青い鳥」は、その最初期の作品に選ばれている。(「日本映画発達史I」より)
しかし、田舎の小学生には難しすぎたようだ。

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