初めて見た映画と原町の旭座
内藤順(福島市)

 〔私がはじめて映画を見たのは四、五才のときだから、大正八年ごろの野馬追のときだった。テントの小屋がけで他の見世物のようにお祭りを追って渡り歩いていたのだろう。
このはじめての映画には弁士が何人もいた。映画の画面に出て来る子どもの声、ほんとうの子どもで、男は男、女は女の声で数人がそれぞれの役を受け持っていた。この方法は一回しか見ていない。
二回目に見たのは原町の旭座という映画館で「城ケ島の雨」であった。歌川八重子という俳優の名もまだ覚えている。この映画を見るために兄と二人で原町まで歩いて行き、夜中に帰ってきた。
次は小学四年のことで学校で映画会が開かれた。場所は小学校の教室で、三つの教室の境の扉をはずして講堂代りにしたところで、夜暗くなってから始まるのである。(注。内藤氏は太田村の太田小学校に通学)無料公開ということもあって、みんな前々からたいへん楽しみにしていた。
その後、学校で引率されて町の旭座に行き「青い鳥」という映画を見た。メーテルリンクの有名な作品だと教えられ期待に胸をふくらませて行ったが、内容がむずかしくて何が何だかわからなかった。
その後、原町の旭座が常設館になった。常設館とは毎日映画を写すところだと教えられた。タ方になると入口の二階でラッパを吹く楽隊がにぎやかに演奏して客の心をあおり立てる。
芝居のときも同じだが、木戸賃を入口の売場の窓から払うと木札をよこす。これを持って中に入り、受付に渡す。履物は下足というところで預かってもらう。預かりのしるしに木札を渡してくれる。この札には「おの一」「いの三」などと書かれていた。「への五」というのもあると笑い話になった。
新しく芝居が来ると顔見せという行列が来る。たいていその夜演ずる芝居のふん装で人力車に乗って行列をつくって来るのである。こんな姿は原町のような田舎町でも何回も見られた風景であった。〕
(昭和59年「ふくしま大正少年・遊びの民俗誌」より)

注。内藤順(旧相馬郡太田村出身)が回想する大正八年頃に見た映画で、何人もの弁士がいたという記憶は、その当時の状況をそのまま描いている。
淀川長治の自叙伝によると〔サイレント映画時代にはいうまでもなく説明者がついて画面を説明し、画面の中の人物の会話(しゃべり)もこわいろでやっていた。そして日本映画は大正八年ごろまでは一本の映画に四人も五人もの今でいう声優がついたのであった。女形專門のこわいろ、男役のこわいろ、子役はほんとうに声優少年が男の子や女の子のこわいろをやった。〕(「淀川長治自伝」中央公論社)とある。

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