朝日座が建てられたころ   松永時雄(松永牛乳店社長)
 〔朝日座が建てられてから今年でちょうど五十年(この稿は昭和46年)になると言いますから、私が五ツか六ツの時だったのでしょう。 その頃原町には山東横通りに原町座が一軒あって、時々田舎廻りの芝居が掛かったりして芝居好きの叔母に連れられて見物に出かけたものですが、小屋はいやに陰気で天井が低くそのうえ時々便所の臭いが客席まで流れて来たものですから、子供ごころにもいやな思いをしたものです。そんな時新しく朝日座が建てられたのですから、幼い眼には朝日座が特別大きく立派に見えたのも無理はありません。  私の家の牛舎が丁度朝日座の南に隣り合わせていたもので、いきおい朝日座周辺で遊ぶ事が多かったし、また腕白仲間もたくさんおりました。長谷部のサブロー、水口の宴サン、戦死したのんきやの勝坊等みなチャンバラ仲間だったと思います。遊び疲れるときまって朝日座の前に行っては今のスチール写真(私達はそれを画と言った)を眺めたものです。画は一週間に一ぺん位でとり換えられることになっており、新しい画に交換されていたりしますとワァッと歓声を挙げて、あああれは市川百々之助だ、あれは粟島すみ子だと胸をときめかして見入ったものです。その頃人気のあったのは目玉の松チャンこと尾上松之助。やがて長谷川一夫の前身林長二郎の登場そして今で言えばアイドル的存在だった高尾光子が子役でデビューした。そう言えば、水谷八重子が芝居から子役で活動写真に出るようになったのもこの時代です。そんな画を学校帰りに鞄をかかえながら時の過つのも忘れて跳め入って、子供ながらの感動を味わった事を覚えています。  小屋の中売りと留守居役を兼ね、斎藤さんという爺さんがおりました。斎藤さん一家はどういうわけか私を愛してくれましたし、私もヂッチ、ヂッチと斎藤さんを呼んでなついておりました。その斎藤ヂッチにキヨチャンという娘がおりました。キヨチャンは小がらで年はたしか私より二ツか三ツ大きかったはずですが、いつも活動写真を見ているせいか変に大人びた口をきいてましたし、そのしぐさもおませでハイカラでした。私が他の男の子にいじめられたりすると、とんで来て私を庇ってくれたりしたものですから、なんとなく頭の上がらぬ存在でもありました。  ある日私が、一人朝日座の木戸口で遊んでいるとキヨチャンは私に楽屋の裏を見せてくれると言うのです。いったいあの映写幕の裏はどんなふうになっているんだろうと、子供心にも好奇心にかられ、秘密の場所の探検にでも出掛けるように恐る恐るキヨチャンの後ろに付いて行きました。すると楽屋裏は私の予期に反してガランとしていやにゴミッぽく、あちこちに芝居の小道具などが散乱していて、すっかり期待はずれだったことを覚えています。楽屋から客席に出ると客席は薄暗く、小屋の天井いっぱいに画かれているビールの看板のエビスの顔が変な笑みを作って迫ってくるようで、思わず背筋がゾクゾクして今にも泣き出しそうになったことを憶えております。  活動写真を見ることを固く禁ぜられてました私は、友達が昨夜見た活動の話をしているのをきくと、矢も楯もなく見たくて見たくて仕方がありません。たまたま朝日座に「大楠公」という活動写真が掛かった時、遂にその願望が頂点に達しました。水谷八重子が楠正行に扮して大活躍する写真です。その当時活動写真が掛かると朝日座専属の楽隊が町廻りをすることになってました。幟を持った三、四名の子供を先頭に楽隊は町を練り歩くのです。幟を持って町廻りをした日は、ハタ持ちは朝日座に無料で入場できるのです。ハタ持ちの親分格に同級生のKという子がおりました。その日Kに無理に頼んでハタを持たして貰ったのです。楽隊は東一番丁通りを北に下りUターンして本町通りを南に進むのです。  朝日座さん江と書かれた幟りは風にハタめいて思ったより重く感ぜられました。やがて楽隊が本町の私の家の前に来かかると、さすがに恥ずかしく幟りで顔を隠すようにして通り過ぎたことを覚えてます。その日「大楠公」を見終わりゾロゾロと朝日座の外へ出ると、そこにはボンヤリ電灯のついた病院前の暗い通りがありました。まだ昂奮から醒めやらぬホテた頬で今見てきた活動写真をかみしめて、石をけると石はカラカラ音をたてて転がって行きました。  このハタ持ち事件がどうしたわけか、家人に知られて、母親からひどく叱られたことを憶えてます。ハタ持ちをしたことは後にも先にもこの時一ぺんだけでしたけれど、なぜかこの時以後朝日座に出入りすることをあまり厳しく言われなくなりました。もう遠い日の想い出になりました小学生三年秋の出来ごとです。  当時は現在のようなトーキーの時代ではありませんでしたので、活動には一人一人活弁がついて説明してました。弁士は舞台スクリーンの傍で台本を読みながら説明したものです。その頃の弁士に春日小楠、小島亀サン、大森双石、松井某などおりまして、いずれも個性的でアクの強いナマリで説明してました。しかしなかなか人気のある職業で、たまたま街角で痩躯に絽の羽織を羽織って飄々として歩いて来る春日弁士の姿を見かけたりすると、学校の先生なんかよりずっと偉い人のように思われてなりませんでした。春日さんは朝日座の裏二階に寝起きしてたらしく、ある日やはりキヨチャンとその部屋を覗いてみたら、一人で納豆をかけてご飯を食べてる春日さんをみて、なにか悪いものでも見てしまったような後悔と裏切られたように幻滅を感じたのも事実です。  春日さんは富岡町に退き亡くなられたそうですし、大森さんは郷里の大堀村で終戦後一度村長になられたとか。残りの人達のその後の消息は判りませんが、原町在住の中年過ぎの人なら誰でも想い出に残る名前ばかりです。その頃、朝日座の前の渡辺病院は現在の位置にありましたが、道路に沿うて病室が三ツか四ツしかありませんでした。病院の北隣りには老婆が一人イナリ寿しを作って売っておりました。なんでも屋号が最上屋といいましたから、そちらの方から来た人だったかも知れません。婆さんは小さなカツラをかぶっていたので、私達はカツラやカツラやと呼んでおりました。  記憶に誤りがなければ、現在の旭食堂あたりに松崎という活版屋さんがあって、終日ガッチャンガッチャンと機械の音がしてたような気がします。また朝日座の斜め前に芸妓置屋がありまして、映画の帰りに格子の中をのぞくと、お茶をひいて残ってる芸者がうす暗い電灯の下でポツネンと座ってる姿がなんともわびしい限りでした。染物屋のあとに今の香月堂菓子店ができ、活版屋のあとに焼き餅を焼いて売ってるオバさんの店ができたりして、昔のおもかげはほとんど残っておりませんが、東一番丁の通りは朝日座があって懐かしい街でした。活動写真が上映される日に限って、朝日座の二階窓からウラ哀しいジンタの音がゆるく静かにタ暮の街に流れてくると、無精に人が恋しく、こども心になんだかさびしくなって来て、それがまたいい気持でもありました。  このようにして朝日座は、こどもの頃から青年期そして現在と、私の人生に何らかの形で影を投げかけてきました。朝日座を想うときほのかな郷愁のようなものさえ感ぜられるのです。〕(「わたしと朝日座」昭和46年より)
注。  栗島すみ子。明治35(1902)年、東京生まれ。子供時代から舞台を踏み、子役としてM・パテー社製作の映画に出演。21年に本格処女出演。清楚な美貌で一躍人気の王座を占め、以来十有余年にわたり、日本の映画女優の第一人者として君臨した。37年引退後は舞踊に専念。特別出演が数回あるのみ。昭和62(1987)年没。(「ノーサイド」平成7年9月号より) 「大楠公」について。 「日本映画発達史Ⅱ」によると、〔立花良介が阪妻プロダクションのために太秦へ新築中のスタジオが、この年五月頃には半ば竣工した。それまで下加茂スタジオを使っていた。阪妻一党がそこへ移り、野村芳亭が井上正夫、水谷八重子主演の「大楠公」(大正15年3月28日、歌舞伎座封切)をここで完成〕とある「大楠公」は大正15年の完成。松永氏の記憶はこの頃のものだ。  水谷八重子。〔明治38(1905)年、東京牛込生まれ。芸術座に出発し、花柳章太郎らの劇団新派の結成に参加。亭主が十四世守田勘弼で、娘は水谷良重。映画デビューは国活の「寒椿」(1921)と古い。代表作に「歌女おぼえ書」(清水宏1941)「小太刀を便う女」(44)戦後作品では「明日の幸福」(55)。昭和54年(1979)没。〕 (「ノーサイド」より)

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