旭(アサヒ)座の名の由来
当初は「東座」と仮称されていた
(大正12年6月15日民報)
原町東座落成
目下相馬郡原町東一番町に新築中なる原町東座はいよいよ落成に近づきたるが来る七月二、三、四の三日間東京から大名題を招いて花々しい舞台開きをなす筈である
大正12年に新築された旭座の命名の由来は何からの「旭」なのだろうか。直接的な由来は判明しない。しかし大正当時にあった映画館の名で、旭座(朝日座の表記もする)あるいは旭館(朝日館)という名は大正館あるいは大正座という名と並んで最も一般的だったようだ。喜多方旭座(明治25年以前)、本宮朝日座(明治26年)、飯坂旭座(明治44年)などがあった。当時流行の名称だった。昭和3年頃の神俣旭座という表記もみえる。
明治31年から40年にかけて3期町長をつとめた佐藤徳助が「稿本相馬案内記」という、相馬郡全域にわたる地名解説を記しているが、その中に「旭町」についての言及がある。
〔旭町朝日の昇るとき其の光麗らかに街路一面に輝きて、精神の爽やかなるを覚ゆ。
本町通りの発展も正に旭日昇天の勢いを以てし、将来倍々繁栄ならんことを望(ね)がい「アサヒ」の名を付せるなり〕
旭町は原ノ町駅から、現在の旭公園交差点の東北角、旭屋(現ピッコロ・旭町の町名から屋号をとった)までの通りの町の名だが、徳助は当時の「旭」という語感に託されたイメージを、このように記している。
大正になって、町の旦那衆が新しい活動常設の頃に「アサヒ座」と命名した背景には、かくのごとく当時の雰囲気がこめられたものと思われる。
大正15年の広告にはアサヒ座と表記されているし、戦後までは「旭座」という表記をみかける(戦前でも朝日座の表記もあるにはあるが)朝日座と表記されるようになったのは戦後の昭和26年のことである。旭座を経営した二代目の婿取り布川キミの記憶では、当時の共同経営者の布川と神谷の相談の結果だったという。