大正2年の野馬追祭に活動写真のテント
大正2年の相馬野馬追は7月に行われた。ただし、有栖川宮(猪苗代の天鏡閣の持主)が薨去したことがあって歌舞音曲が禁止となり、11日からの祭典執行は14日からと延期になった。野馬追祭に、活動写真の見世物が出た、という新聞記事がある 〔新町に設けられたる活動写真は絶えず勇壮なる音楽を奏でて観客の吸収に忙はしく〕 と17日の新聞に記事がある。不況にかかわらず野馬追は地域の活気の渦の中心だった。現在の本町が、旧来の宿場町であり、新町というのは四葉の辻から南側。明治になって以降に出来た町並みである。 野馬追の祭に立った露店に交じって、テント小屋の芝居や活動写真があったことも、前述のトリさんは覚えている。 大正6年、原町町長松本良七が、町長を辞して原町を去った。東京の家族と合流するためだった。松本は名町長として親しまれた人物であったが、その妻クマは、子供の教育に熱心な孟母のような女性で、原町では子供たちを教育できないとみるや、長男を陸軍幼年学校に入れて仙台に転居し、さらに東京に出た。松本良七は単身赴任のような格好であり、町長を辞めることで家族合流が可能になった。松本良七とクマとの間に生まれた次男の文夫が、のちの亀井文夫監督である。松本の家族史は、原町を棄てることで一人の異色の記録映画監督を産んだ。 大正7年5月、政府は巨大な国際無線電信局を原町に建設することを決定。翌8年から建設が始まった。巨大な穴が掘られ、鉄筋が組まれコンクリートが流しこまれた。それを見ていた請負師の関場清松は「無線塔の解体はウチで請け負え」と口ぐせのように言っていたという。回収する鉄筋だけでも相当儲かる筈だ、と建設当時の工事を見ていただけに、その膨大な資材の量に感嘆した。大正9年に塔は完成。10年には磐城無電局原町送信所が開局した。 ともあれ、朝日座(当時は旭座)は大正12年に、関場清松(現在の関揚建設の初代創立者)の請負で建設されたのである。磐城無線電信局の原町送信所は立派な煉瓦作りの建物で、清松は建築業で身を立てる決心のもと、初めて請け負う仕事を取るためにかなり無理をして低廉な入札をしたため、赤字をかぶったという。この局舎建設のあと、次にとりかかったのが旭座の建設であった。 大正とは、東北の片田舎にも新文明が波のように押し寄せた時代だった。