原町旭座開館前夜
明治29年に、就学率の低い原町小学校では幻灯機を購入し、各方部に出張しては幻灯を見せて学校教育の大切さ、就学の大切さを町民に呼びかけている、という報道が見られる。
また明治35年に新祥寺で、八甲田山の陸軍の雪中行軍隊の遭難事件の幻灯会が行われている。在郷軍人会の主催による義捐金募集の慈善映写会である。
こうして、学校校舎や寺院の伽藍といった会場で、幻灯の映像をみるという体験はすでに庶民の間でおこなわれていた。芝居小屋で活動写真をみる以前に、暗闇の中で映像を見て、世相を知り、社会問題を認識する訓練を日本人は映画を受け入れる以前に準備していたのである。
明治43年に原町に電話が通じた。翌年44年には原町に電灯がともった。
明治45年、明治天皇が薨去。世は大正となる。大正元年、原町で自転車は18台あったという。便利な新文明の利器であった。大正元年に中村町にもようやく電灯がついた。電話もついた。大正2年、中村人の自慢の瀟洒な郡役所が焼失した。この年、相馬地方は霜害のため桑園被害。凶作で北海道に移住する人々があいついだ。そんな年に(というよりそんな年だからこそかえって)小屋掛けの芝居座に人々は群がり、民衆娯楽は華やかに地方の村を彩ったのだ。
注)開館当時の表記は「旭座」と書かれていた。のちに朝日座と表記されるようになった。
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