百歳の記憶とのインタビュー

 平成7年1月12日に満百才の誕生日を迎えられた小沢トリさん(原町市押釜原九〇番地)にインタビューした時、明治時代に初めて見た活動写真の話題に及んだ。  「日露戦争では旅順陥落の時に提灯行列があって見に行った。それから活動写真というものが来たというので親に連れられて町まで出掛けていってみた。兵隊が四列になって手を振って歩いてゆくのを初めて見せられた。今でもはっきり覚えている。弁士がついたりしたのは、そのあとだ」  平成7年(1995)、映画発明100年目、新年が明けてからずっと探し続けていた証言についに出会った。  「それはどこの場所で見たんですか?」と私は昂奮し、息せき切って質問した。  「松永七之助商店の向かいだった」とトリさんは答えた。  つまり、そこは原町座のあった場所である。やっぱり。  日露戦争の実写フィルムは、日本中の人気を呼んだ。日露戦争の直後に全国を映写して歩く業者がいた。旅順陥落は明治38年1月1日だ。原町に電燈はまだない。ガス燈の光源であろうが、電気に比べたらぼんやりしていただろう。しかし、原町において人々が動く映像を見たのはこの時が最初だろう。県内を日露戦争の映画を見せる巡回上映が行われたのは明治37年から明治39年にかけて。大変な話題になった。国家の一大事であるロシアとの戦争での勝利に湧く国民的関心事であったこともあるが、ほとんどの明治人はこの時に始めて「活動写真」を体験したからである。原町市史では明治43年に原町で初めて映画が上映された、とあるが、明治43年では遅すぎる。 日露戦争の実写フィルムは全国で上映されたが、いつまでも映写された訳ではなく、新しい流行の活動写真も題材によってはすぐに陳腐になるので出し物はすぐに代えられ、当時の県下の状況からみて遅くとも39年までには上映された筈だ。正確を期するために、私はトリさんが初めて活動写真を見た時期について質間した。  「幾つの時に見たんですか」と尋ねると  「十歳の時だった」という。トリさんは明治28年の生まれ。十歳の時とはつまり10年後の明治37年である。ドンピシャリ。日露戦争の年である。あるいは満年齢なら明治38年。原町にもかなり早い時代に映画はやってきていたのだ。トリさんの話は生きた歴史そのものだった。  明治の原町に生きた百才の歴史の生証人に確認しえた最古の映画は、この「旅順陥落」の頃の、すなわち日露戦争の実写フィルムの一本である。  「その時の、なんとか、なんとかのアズマ艦、という歌を覚えている。アズマ艦というからには軍艦のことでしょうが、軍艦の姿は見なかった。見たのは兵隊が手を振って歩いている所だけだ」  さらに一年後の平成8年1月12日に101歳になられた小沢トリさんを15日に訪問。誕生を祝ってまた昔の話をお聞きした。二人の娘を連れていった。長寿をことほぎ、またあやかりたいと思った。元気な姿を記念写真に撮った。  「原町座で目玉の松っちゃんという役者の忠臣蔵を見た。芝居と活動写真の両方でやった。芝居で出来ないところは映画でやって、また芝居になる。二日続けてやったので、二晩かよって見た」と、この時は新しい話をしてくれた。  こうした映画と芝居で同じ一つの物語を追ってゆく形態を「連鎖劇」と称して、大正当時は一般的に行われた。  「原町座にはずいぶん芝居を見に行ったよ。あとで旭座ができて映画をやるようになった。映画はお盆などにやる時だけ見に行った。在(在郷)の農家だったからな」 原町の奥座敷のような押釜の小沢さんの家には、様々な芸人たちが訪問して、泊まったという。祭文語り、瞽女の三味線弾きや、乞食。雪の降る時には二日も三日も泊まってナ。  盲目の瞽女は子供を連れており、「お礼のかわりに、音にもならぬ三味線を掻き鳴らして歌を歌ったりした」という。  明治41年10月9日に、のちの大正天皇となる当時の皇太子嘉仁が原町を訪問。臨時野馬追を台覧した時のことをはっきり覚えている。  「小学生の時だった。道に並ばされてな。姿勢をきちんとしな、と先生に言われて。細い顔の人だった」  「山家病院の所に女郎屋があって、みんなで金を出して、芸者の踊るのを見に行ったこともある」(栄華楼と柳屋という遊郭で昭和3年に踊る芸妓たちを撮影した映画がある)  自宅の敷地内の離れの小屋に住んでいた娘が、原町の遊郭に売られてゆき、そののち自宅近くの杉山の下で、ひとにぎりの生米を摘んでは食べていたのを昨日のように覚えている。  「今でも目の前に浮かぶようだわ」  トリさんは、生家が豊かであったことから町の珍しいことを見に行くのが趣味で、ずいぶん原町の本町の様子を覚えていた。  「明治の頃には原町は本町しかなくて、駅の方には二、三軒ぐらいしか家もなかった。本町のまんなかには小川が流れていて、その用水で物を洗っていましたよ。野馬追の時の行列は、小川の西側に並んでいました」  「大正の原町の大火事はひどかった。本町の郵便局から北側が全部焼けた。旅館に泊まった飛行隊が火元だった」とも語る。 大正11年の小仲屋から発した本町大火の記憶である。松永七之助商店で火災は止まり、原町座は焼け残った。旭座も本町通りから一本東側の東一番丁にあったため類焼をまぬがれた。大正15年の商業地図には双方の場所が記入されている。  平成9年3月28日、三度トリさんを訪問した。この2年間に図書館に通いつづけて100年間の新聞を読破して、目にできたあらゆる史書をひもといて、気がかりな史実を点検した。その結果、多くの史書に間違いをみつけ、トリさんの記憶が正しいことを知った。また明治の原町の写真を持参して見ていただいた。  「品川繰り出しアズマ艦、なんて歌が流行っていたわなあ」  あいかわらずはっきりと喋る姿は、歴史の証人である。アズマ艦というのは、日清戦争の前の明治21、22年頃に流行した「欣舞節」という歌の一節で若宮万次郎の作詞作曲。若宮はオッペケペー節の作詞者として有名。 〔日清談判破裂して、  品川乗り出す東艦、  西郷死するも彼がため、  大久保殺すも彼がため、  遺恨重なるチャンチャン坊主、  日本男児の村田銃、  剣のキッ先味わえと、  なんなく支那人打ち倒し   万里の長城乗っ取って、  一里半行きゃ北京城よ、  欣舞欣舞欣舞愉快愉快〕  という日清衝突を予想した歌。戦争になるとさかんに歌われ、その時には 〔続いて金剛、浪花艦、国旗堂々翻し〕の歌詞がつけ加えられた。日露戦争のころまで、人々の口に好んで歌われ続けていたのであろう。  今回はビデオカメラを持参して、トリさんが百年前の記憶を回想する場面を撮影した。惜しいことに、その4日後の4月1日にトリさんは死去された。

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