小高町の記録映像と天野秀延について
昭和4年1月23日民友「大蛇記映画」小高町の劇映画
〔「大蛇記映画」 二月十日から公開
過半郡山プロダクションの手で相馬郡内の名所旧路大悲山の大蛇記を脚色した映画は来る一月十日から二日間小高座に於て公開し引続き郡内各町村を巡業、観覧に供する事となつている〕
製作を担当した郡山プロダクションとは、大正14年に誕生した郡山フィルム商会という会社ではないだろうか。
・天野秀延のプライベート・フィルム
「昭和11年の浪江町少年海水浴映画と17年の福浦村農村の記録」
相馬郡福浦村(現小高町)の富農地主天野秀延はイタリア音楽研究家として有名。パテーベビーのカメラ、映写機を所有していた。裕福な家庭に生まれた天野は 高級な趣味として個人映画を撮影していたが、昭和11年ごろ、福浦の海岸に遊びに来ていた浪江町の少年達が海水浴している姿を撮影し、浪江座で公開してい る。
のちに福浦村長に迎えられ、村の農業を改革する運動を展開し、その記録を残した。昭和17年ごろの村づくりのために農作業の様子を撮影したフィルムが平成7年、NHK仙台放送局の特別番組「東北の民衆と戦争」で紹介された。
●昭和13年12月、浪江の軍医少尉大井不二男が監督して「白衣の記録」製作。仙台陸軍病院映画班が撮影した。
●昭和15年に故郷の小谷(小高町)をロケした文化映画「村の託児所」の制作者として名前を残しているのが映画人ではないが映画プロデューサーとしての平田良衛がいる。共産党員だった平田は赤狩を逃れ理研映画を隠れ蓑にして戦時中は中国へ緊急避難。理研撮影班の演出担当山口晃監督、カメラマン石川某、古矢正吉、海老澤龍三が昭和15年6月に金房村に来訪してロケ撮影した。
●昭和17年、相馬郡福浦村(現南相馬市)で村長の天野秀延が農村風景を自前のパテーベビー・カメラで撮影、上映した。
「共同作業を撮影 福浦村で 青年村長天野秀延氏 八ミリ映画に」(17.9.4.)と朝日新聞福島版に載ったが、実際には九ミリ半のフィルムである。
●昭和17年 天野秀延、ラジオで「農村と読書会」
この年、青年天野は福浦村長。9.5ミリフィルムを使用するパテ・ベビー社のカメラで、福浦村の農作業光景を撮影した。NHK仙台「東北と戦争」で放映、紹介された。
昭和18年6.18.天野秀延「農村と読書会」放送
小高町の映画常会
また20年には、大政翼賛会が小高町に映画常会を作り町民に娯楽を提供した。
戦争中の各町村には、翼賛体制の文化活動があった。小高町には模範的な翼賛運動の一つとして映画常会の存在があったことを、昭和20年の民報が伝えている。
〔増産の糧 娯楽 小高の誇「映画常会」 明朗敢闘譜 応募話題(2)〕
半谷猷清(はんがい・のりきよ)
小高町大井。野馬追祭礼に尽くした相馬野馬追功労者。1988年7月1日死去。72歳。
相馬野馬追には昭和3年から昭和12年の野馬追1000年祭や1941(昭和16)年の上京野馬追(俗称天覧野馬追=興亜馬事大会)にも出場。大政翼賛会文化部役員。小高町映画常会を指揮した。先祖は相馬氏の奥州下向に従い、岩井市半谷村の出身。昭和62年に句集「お野馬追い」を編集し、相馬和胤氏に献呈。地血は俳人で小高町長の半谷絹村。夫人は俳人半谷綾子。
昭和23年、桃内駅建設
天野秀延(1905~1982)氏について
現代イタリア音楽の研究家(今となっては近代)であり、代表著書に「現代イタリア音楽」がある。この著書が芸術評論の部で1960年度第11回芸術選奨に選ばれた。出身である福島県小高町の町民歌や浜通り地方の学校校歌の作曲、相馬地方の小中学校の音楽指導も行っていた。合奏指導を受けた学校は、県内一位、東北大会最優秀賞など優秀な成績を収める。福島県小高町桃内の村長を勤めていた。傍らイタリア音楽を研究していた
イタリア音楽の研究家であり、代表著書に「現代イタリア音楽」がある。この著書が、芸術評論の部で1960年度第11回芸術選奨に選ばれた。また、小高町の町民歌や浜通り地方の学校の校歌を作曲しており、各地方の小中学校の音楽指導も行っていた。合奏指導を受けた学校は、県内一位、東北大会最優秀賞など優秀な成績を収めた。また、福浦村の村長に就任し、恩師である豊田君仙子を助役に迎えて村政にあたった。
旧制中学という制度が、占領軍最高司令部GHQの指令によって5年制から新制中学のjunior high schoolと、high shool高等学校に分離された。
新しい学校には新しい効果が要求されて、気鋭の作曲家天野が地域の学校児童生徒のために、新しい感覚で地元の効果を生み出していった。
昭和29年に、旧相馬郡原町から原町市となったので、原町市民歌を作曲。