Nさんへの最期の電話

二上 英朗
4月14日 ·
Nさんとの最後の電話

二上 英朗·2019年4月14日日曜日
#原町のNさんの家へ何度も通った。
戦争中から戦後の昭和23年まで記録のない原町教会の様子について、その戦後事情を語ってもらおうと訪問したのだ。
二三度つづけて、たまたま夕食時に訪問したり、所用のある午後だったりして、なかなかタイミングが悪くてすれ違った。いや、すれ違ったのではなくて、運命の神が、そのように計らってすれ違わせたのだろうとさえ今なら思うのだ。
そんなこんなで五年たち、十年たって、Nさんは90歳になっていた。電話でいいから、ぜひ昔のことを語ってほしい、と。
それまでは「教会に行ってはいないが、聖書はね、折に触れて読んではいるよ今でもね」と、あの穏やかな口調で、短い対面で答えたりはしていた。
すでにぼくは原町教会青年部ノートという七冊の大学ノートに克明に日録で教会での青年部の集会記録が手元にあった。昭和21年から29年まで教会牧師の岡田静夫牧師の伴侶の夫人が「禁帯出」というカバーを付けて火災から携帯して保管してきた貴重な青春の詳細は、若きヨハネのようにイエス死後の母マリアを庇護し介護したように、岡田夫妻を愛弟子の後継者木嶋牧師を経て、ふるさとの原町の歴史専門調査員の私の手元にあって、たぶんNさんたち以上に、戦後の三年は詳しい。
あれだけしつこくインタビューを求められて、ついに彼は、電話で直接の面会でなかったことで気が緩んだのであろう、さすがに温厚なNさんが怒鳴ったのだ。
「あの頃のことは、思い出したくもない!」。
同時代すなわち昭和23年6月に、分裂する直前までの原町教会は、戦争中無牧の教会堂
を戦後青年たちの天国を指揮していたホーリネス教派の岡田牧師夫妻の指導によって讃美歌と証の泉と園にあふれていた。
青年たちのガリ版文芸誌「HHG」という印刷物が、ワシントンにも存在する。もともとプランゲ文庫と呼ばれるメリーランド大学の日本占領史料コレクションの中から発見して、膨大なコピーを照査し、かつ、これを辿って、編集発行者自身の岡田汐子女史の生涯の宝物を伝達されたのだ。私にとっては、紀元ゼロ年のパピルスのごとき記録である。
Nさんは、当時、十字架特攻隊などと事象するほど熱心な信徒で、青年すると原町役場に入って、その温厚な性格と、律儀なクリスチャンとしての倫理的知的な容貌と実務ぶりが執行部トップにつねに愛されて重用されたため、図書館長という相応しい厚遇にあって退職した人物であった。