山田の弟服部正夫は、挫折している兄の姿を見て、この事業に宗教的な信念の必要を感じて、教会の門を叩くことを兄に勧めた。貞策は弟の勧めに従い、酒もたばこも断って事業に専念。ある日説教を聞こうと、教会を探しに近くの小高の町を訪れた。
 山田貞策はここで、のちに堅い友情を結ぶことになる青年牧師杉山元治郎に出会うのである。杉山の存在は、干拓事業の精神的な支えとなり、技術的な指導は父の遺志を継いだ出崎猪之介がすべてを取り仕切って率いた。
 猪之助の意見によって、排水機による排水を諦め、湖面の海面より高いのを利用して岩盤隧道から排水する考えに突き当たり、以前に沿岸住民が一致協力して明治九年浦口北方海岸に突起している砂岸層の山麓に隧道を掘ったものがあって、幅六尺(1.8メートル)高さ五尺(1.5メートル)の、この古い隧道の砂を浚ってゆくと、湖水が海へ流れ落ちない工事ミスを発見した。
 地域住民による開削トンネルは、もう少しで干拓に成功する手前寸前だったのである。つまり両方の口の高さだけが測量図通りで、トンネル中央が高くなっていたのだ。そこでトンネル中央部分を削って平坦にすると、はたして八沢浦の水面は動き始め、一夜のうちに三百五十町歩の沃田が忽然として眼下に現出したのである。
 
12名の犠牲者だし ようやく完成

 酢日山牧師は農学士でもあり、その後入植者たちの農業指導にあたり、夜は説教して精神的な訓話をほどこした。素朴な入植者たちは等しく貧しく平等であり、一種の原始キリスト教的雰囲気の中にあった。
 開田の時に、杉山は恩師であるシュネーダー博士を八沢浦干拓地に詠んだ。博士はこの地に祝福を与え、こう言った。
「ここはモーセが海を取り除いたように神が作って下さった土地です。これこそは奇跡でなくて何でしょう」
 野良着で大男の入植者たちは、敬虔に聞き入り、ひとしおの感動を味わった。
 明治44年、耕地整理共同施行を申請して、同年12月28日許可された。
 出崎猪之介は、同じ年相馬の新沼浦六百町歩の干拓事業のため八沢浦を去った。彼にとって生きる場所は、つねに技術の世界であったから、一つの事業の成功は止まることはなかった。
 猪之介の娘にあたる武口周子さん(相馬市在住)は次のように語る。
 「父は晩年、朝鮮へ渡って干拓事業をする夢をもっていたようでした」
 ひっきょうエンジニアの典型的な生涯を見る思いがする。
 干拓事業成功の後は、山田貞策の娘婿山田茂治が高知整理事業の任に当たった。山田貞策はその後郷里の岐阜へ戻って村会議員と県会議員をつとめた。
 山田貞策の一生の大事業は、このようにして福島県相馬郡鹿島町の八沢浦に残された。出崎栄太郎も山田貞策も相馬の人間ではなかったが、相馬にとっては忘れてはならない人物だろう。そんな意味をこめて、郷土の先行者たちのなかに列せられるべきである。
 その後年々改良を加えられ、八沢浦干拓地は順調に発展したが、不幸にも海底トンネルを掘ったサイフォン式海中排水口から海水が侵入し、大正15年1月、宇都宮清三郎(当時39歳)、佐藤一郎(同22歳)、前川長命(36)の3名が殉難。
 昭和2年7月31日、土用丑の日に、再び砂詰まりを取り除こうとして事故が起こり、人夫8名が死亡。
 上谷地武(38)、宇都宮栄一(27)、小泉亀松(23)、相良亀次郎(37)、大久保幸記(24)、荒運記(25)、今野善助(43)、渡部冬治(38)らである。
 八沢浦干拓機械場にある山田神社の傍社が、彼等犠牲者をまつっている慰霊殿である。
 北海老の小高い丘の上に太平洋を見おろしながら干拓の記念碑は、一つの歴史を秘めながら建っている。

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