もう一つの原町教会
    原町基督教会

 明治から大正にかけて、日本基督教会よりも隆盛していたもうひとつの別のキリスト教会が原町に存在した。「日本基督教会」とは別の「原町基督教会(デサイプルス)」である。明治33年には本町のはずれ小田久太郎の奥座敷の二階に、講義所として誕生した。
 大正7年刊行の「相馬原町案内」には、次のように記されている
 〔▲原町基督教会 本町五丁目に在り、明治三一年頃福島の人建部猪吉氏当地に来り業務のかたわら基督教を宣伝し、三十二年四月に至り始めて二名の信者を得たり、爾来信者漸く増加し、明治四十一年一月伝道会社の補助を得て現在の会堂を建築せり、蓋し当町基督教の開祖なり、現在信者六十余名、牧師川村洋次郎氏永く当町に在り、地方の精神界に貢献する処多し。〕
 原町基督教会の創始者建部猪吉について「基督教会史」には次のようにある。
 〔マデン夫人編著(明治四二年刊行)によれば、「建部猪吉は、熱心な信者である妻に導かれてクリスチャンとなり、明治三一年に福島でマデンから洗礼を受けた。彼は福島県原町で鉄道に働いているとき、同地で伝道を始め、後にミッションに招かれて教役者となった」。
 建部は明治三二年三月、自分で日曜学校を開き、かねて大人にも伝道を始め、三三年一月、鉄道会社を辞めて専任の伝道助手になった。明治三六年に聖学院神学校が出来ると、早速上京入学したが、中途病気のため休学し、三九年六月、別科を卒業した。当時原町教会には江川牧師がいたので、福島北方の桑折に講義所を開設したが、同年一一月江川牧師の辞任に伴い原町に帰って正式の牧師として伝道を続けた。四一年には会堂を建設した。四一年一一月、マデン開拓の東京府下八王子講義所に転じ、大正六年に奈良県御所教会に赴任した。〕
 大正十年以降は不明である。

原町基督教会創立者の建部猪吉

 地元の郷土史家による「笹舟郷土誌」では〔原町基督教会(原町字下町)会堂五間六間 敷地 百三十六坪 寄付地 信徒大正十三年百二十八
 明治二十七年頃には字伊手内に在、平時求導者四十人、牧師建部猪吉。明治三十二年頃には字西原門馬文助宅に在、信者は六名。同三十五年より三十七年までは字町佐藤政蔵宅、同四十年四月教会堂建設致しました。歴代牧師江川七郎自三十八年至三十九年 建部猪吉(至四十一年)江川七郎(再任、至大正四年)河村保次郎(自大正四年大正七年死亡)菊池次郎(自七年至八年)千葉儀一(大正九年六月任)〕
 とある。
 明治27年頃にすでにデサイプル派の信者がいたという記述であり、字伊手内に教会があったというが、この時点で建部猪吉はまだ牧師にはなっていないし、原町に来てもいないが、その後32年頃に門馬文助宅でキリスト信者らが集って礼拝をしていたと笹舟は記している。
 門馬文助は明治27年から原町郵便局につとめ、30年には原町石神高平学校組合員となり、40年12月から原町助役に推挙されて就任した人物。
 成瀬高氏の七十五年略史では、明治三十八、九年頃に〔デサイプル派の宣教師が原町に伝道を開始して、新たに下町キリスト教会を設立し、佐藤政蔵以下数名の信徒は原町講義所を脱会してこれに入会した〕と記す。他派ゆえに詳しくなかったのであろう。デサイプルの原町での伝道開始が明治38・39年頃であるという記述ではあるが、あくまでこれは成瀬氏にとっての外部からの印象としての記述である。借家での見えない教会から、会堂建設以後にようやく「見える教会」になったのだろう。
 明治33年2月1日に創立者建部猪吉が原町基督講義所と大書した看板を掲げたのがこの教会の濫觴である。
 「相馬原町案内」では原町基督教会は伝道会社の援助によって明治41年に会堂を建設したという(笹舟郷土史の記述では40年4月)。デサイプル福島教会(現新町教会)もまた明治41年に借家の教会会堂から初めて独立した会堂を、新町20番地に建設したというから、全く同時期なのだ。
 基督教会が東京日暮里に近い根岸で明治41年ころから内国伝道会の援助で伝道を開始したことに関して、ミッションの明治41–42年度報告には次のような言及で原町がそれ以前の援助の対象であったことを物語っている。「内国伝道会では過去二カ年間福島県原ノ町教会を援助した。同教会は土地を入手し会堂を建てるまでになったが、原ノ町は東京から遠く内国伝道会の人々が出掛けて助けることが難しいので東京で仕事を始めることになったのだ」(デ史P447)
 「相馬原町案内」が伝道会社の援助と記しているのはこの内国伝道会のことのようである。
 日本基督教会原町教会は教勢後退して明治末期を迎える。明治から大正にかけて同教会は無牧となり「最悪の時期」(七十五年略史)であった。しかし神の大きな目から見れば、原町という小さな新興の町に信仰は育てられ、求道者はあらわれ、礼拝は続いていた、ただ、その成長点が別な場所に移ったのである。

 蘇ったデサイプルス教会史

 デサイプル派の教会すなわち、下町教会とも呼ばれた原町基督教会の沿革については秋山操編著「基督教会(デサイプルス)史」に詳述されている。この書は昭和44年に刊行された。秋山氏は1991年に昇天。

 デサイプルスとは何か?
 一九世紀にアメリカ西部に起こったプロテスタントの一派である。原始キリスト教会に復帰することにより、教会の再統一と聖書に基づく信仰の復帰を志したものといわれる。それは聖書のみを信仰の基準とし、日曜毎に聖餐を守り、浸礼を固守する。そして信徒と教職を区別しない。教育に熱心という特色をもち、アメリカその他各地に学校を設立している。
 ディサイプルス派の日本伝道は、C・E・ガルスト宣教師による秋田県下の伝道が最初であった。なぜ、秋田の地が選ばれたかというと、横浜や東京などの先進地では、既に他派の宣教師による活動が活発に行われており、わざわざ当時としては辺境ともいえる東北の秋田が選ばれたのである。彼は一八八三年(明冶二八)に来日し、翌年春まで横浜にて日本語を勉強し、しかるのち秋田に赴いた。こうして日本最初の伝道がなされた。このプロテスタント米人宣教師は、わが国における近代的社会運動の黎明期に土地単税論を提唱し、その普及、宣伝に尽力し、自ら単税太郎と名のった。彼ほど熱心な隣人愛をもって労働者に接し、彼らに深く哀悼された宣教師はいない、といわれる。彼は一八九八年、四十五歳のとき、感冒にかかり築地の自宅にて永眠。墓は東京の青山墓地にある。彼の秋田での伝道開始以来、茨城・福島・宮城・岩手の諸地域を、米人ながらもわらじばきで伝道して歩いたという。

 宣教師マデン夫妻 在任期間(1895~1915)
 日本伝道が不振をかこっている明冶二八年マデン夫妻が新たに赴任した。

マデン夫妻
     
 Milton B. Maddenは(一八九五~一九一五在任)、カンザス州トベカ商科大学卒業後、鉄道会社に勤めていたが、宣教師を志してベサニー大学に入学(夫人も同じ会社から同じ大学に入学)、結婚後それぞれの教会のリビングリンクスとして明冶二九年来日。しばらく東京で日本語を勉強した後、明治三〇年五月、福島地区最初の教会を、翌明治三一年八月仙台に移って仙台教会を興した。同時『聖書之道』と『ハービンジャー』誌の編集を担当し、また巡回伝道者として全国を伝道して回った。原町教会や米沢教会の創立と発展も彼の援助に負うところが多かった。明冶四四年に大阪に転任し、夫人は天王寺、木津川両幼稚園を開設した。夫人は文筆に秀で日本に関する著書が若干ある。大正四年に夫妻はわがミッションを離れ、大阪に独立の旭ミッションをつくった。(デ史p53)

  日本宣教二五周年にガルスト記念奨学金制度が設けられたが、その資金捻出のため、ガルスト夫人編の『大日本における基督教会』が一九〇九年(明冶四二)に出版されている。大正二年には、これに補正が加えられている。(デ史P16)
 この本は写真入りのりっぱなもので、千二百ドルの基金をえるのが目的だった。(デ史P120)
 のちに昭和8年頃のマデン夫人と佐藤政蔵との交流については新聞記事になった消息があるので後述する。
 
 
デサイプル史に描かれた
 原町基督教会

 〔建部猪吉が開設  原町基督教会は、福島教会員(マデンより受浸)建部猪吉が明治三二年三月、マデン宣教師(当時仙台駐在)の援助で自宅に開始した日曜学校に始まる。建部は同年六月の年会で原町の状況をつぎのように報告している。
 「近年来二、三の青年が求道心を起こし、マデン氏より三名が受浸した。私は三月から日曜学校を開いたところ子供の来る者常に三〇名、大人もまた四、五名来会している。私は鉄道の役人で夜は一二時に帰宅するので、十分なことが出来ない、当地には一致教会員が一、二名おり、その一人(呉服商)は信者になったためついには来客がとだえ、通行人も避けて通るほどだったが、近頃ようやく昔に優る信用を得るようになったという。一般の人々はヤソ教はよいものだがはまるものではないと思っているようだ」。
 同年八月、信者の上野幸蔵は、「原町は文化の遅れた土地であるが、神は福音の使者として建部兄をわれらの間に送り、また五ケ月も経たないのにすでに六人の信徒を得、なお一○名に余る求道者を待っている。日曜学校も日に日に隆盛になっている」と報告している。
 明治32年頃に信者6名という数字は笹舟郷土史の記述と符合する。
 すると建部猪吉は、当時郵便局員を辞職して組合立の原町小学校の組合職員をしていた門馬文助宅を借りていたということになる。文助は文久元年生まれ。遠藤文左衛門という藩士の三男であるが、のち門馬道仲の養子になった人物だ。
 大正3年の共同通信社刊行の福島県人名録によれば「門馬文助の住所は相馬郡原町大字南新田一五五。夫人シゲ子は好く内助に力を致し、四男あり、長男仲衛氏は相馬中学出身にして現に家庭にあり」と記されている。

 講義所開設  建部は三三年一月末鉄道会社を辞し、専心伝道者として働くことになった。(英文では二月一日から原町のエバンゼリスチック・ヘルパーになったとある)。同時に講義所を開設することになり小田久太郎の奥座敷八畳二間を借り受け、原町基督教会と大書した大標札を掲げた。仙台のマデン夫妻、ミス・ホステッター、原田ろく(婦人伝道師)なども時々応援伝道に来た。
 三三年一〇年の年会には建部も出席したが、原町の教務報告は仙台の原田とマデンが行った。「目下他教会からの反抗があるが会員はよく一致して分を守っている。会員数は一五名、また毎月一回の婦人会には仙台から原田が応援に出掛け、会衆は二〇名ばかり。なお当教会は諸経費は自給している」。
 三四年三月、教会を町端れの新井橋(新田橋カ)側から町の中央に位いする会員佐藤政蔵宅の二階座敷一八畳に移した。
 三五年三月、七月の年会における建部の報告、「当地の伝道は極めて困難の方で、現在会員は二〇名、昨年来の入会者は四名に過ぎない。日曜学校は町の中央と端れと約半里を距てる石神の三ケ所で開き、各三○名の生徒を有している。求道者は原町に八名、石神に三、四名。この石神は大村であるから、講義所建設の必要がある」。(デ史p99-100)
 三六年二月、建部は新設の聖学院神学校に入学するため上京したが、七月に病気で帰国した。彼は当時、「聖書之道」〈わが派機関誌)につぎのように寄書している。
 「当講義所は佐藤兄の店頭を借りていたが、今回立派な家を適当な場所に与えられ、七月一日に移転した。私の健康は案外よろしく、働きを続けている。目下農桑が多忙な時だが集会には一五、六名が出席している。求道者も三、四名いる。日曜学校も再開し、二〇名以上が出席している。」

 明治33年に教会の看板を掲げたのが新田橋のたもとの小田久太郎の家の二階座敷だという。久太郎は明治45年5月8日に分家して平町に移転、独立している。
 小田一族はもともと石神村大原の出身。新田橋のたもとというのは石神村の領分で、はらのまち宿場の中央からははずれているが、街道の一本道に沿った原町宿は昔から相馬馬追祭の騎馬行列が行われ、行列の待機しスタートする場所だ。久太郎の父親は市三郎といい、長兄は庄之助という大工。この庄之助の長男正伊という人物(久太郎の甥)が高平に修行に出てのち金靴屋と呼ばれた鍛冶屋を新田橋のたもとで始めた。正伊は小田式鋤および小田式ハローという農具を発明しこれを販売し、明治から昭和初期にかけて東北農業に多大の貢献をなしている。現在の特別老人医療施設長寿荘とは道を挟んで反対側の西側にあった。ここに最初の原町基督教会が誕生したのだ。
 明治33年当時の年会で「他教会からの反抗があるが」とされるのが、日本基督教会のこと。同年6月に役場の隣に講義所の看板を掲げたのだから、両者は創立の最初からのライバルだった。
 原町教会は明治34年3月には佐藤政蔵の店に移った。35年当時の日曜学校を町の中央とはずれと石神の三ヶ所で行っていたというから、中央とはずれというのは政蔵宅と小田久太郎宅と考えるのが妥当である。36年7月に適当な家に移転するまで講義所として政蔵の二階を借りていた、という。明治の頃、政蔵は鉄工場を経営していた。現在の野地商会のガソリン・スタンドの場所にあたる。

 原田ろく  静岡出身、ミス・ジョンソンの家塾で養育され(女子聖音楽教師となった土屋そうも同様)、バプテスト系駿台英和女学校で普通学と音楽を修め、府立第一高女を卒業、ミス・ジョンソンとともに本郷教会を助けたり、鶴岡、院内伝道に出掛けたり、聖書之道に寄書したりめざましい働きをした。三三年五月、仙台に移り同教区の婦人会を指導し、三四年一月須藤安吉に嫁した。大正三年須藤牧師昇天後は仙台の婦人伝道師として昭和七年までよい働きをした。三三年三月永眠。(P761)

相良ヒデ  原田ろくが原町で伝道したとき導かれ、須藤安吉から受洗。三九年尚納を卒業したが、在学中から仙台大町日曜学校を助け、卒業後は仙台とその周辺で働いた。四二年五月札幌で結婚。(P761)

 江川牧師、建部牧師  建部牧師はその後神学校に復帰し、三七年一一月、小石川独立教会から江川七郎が最初の牧師として赴任してきた。彼の着任とともに、基督教会内国伝道集会では原町教会を援助することになり、これは江川牧師の報告「在籍四三名、現住者二五名、礼拝出席は平均一〇名、婦人会平均八名、伝道会二〇名ないし六○名、日曜学校平均一五、六名」。
 「明治三八年九月~一○月の基督教会教勢報告一覧によると原町教会の設立は明治三二年六月、会員数二八名、礼拝出席一四名、日曜学校生徒四〇名となっていた。江川は二九年一○月辞職して上京し、その後には同教会の設立者であり、三九年六月聖学院神学校を卒業して桑折講義所の牧師をしていた建部猪吉牧師が帰って来た。四一年に原町の大通りに会堂を建てたが、土地は信者の寄付によるものであった。
 建部は、四一年一一月八王子講義所に転勤し、その後一時無牧となった。四二年八月頃、江川はふたたび原町に赴任して来た。彼は桑折教会牧師を経て、四二年六月佐沼教会へ赴任したが、その後同地が大火で破壊したため、原町に呼び戻されたのである。夫人は原町近郊出身で四十一年に女子聖学院神学部出の高久つやである。」
 
 江川七郎 在任期間明治37年11月~、42年8月~ 明治11年11月、愛知県碧海郡高棚村の村長江川右衛門の子。兄弟の中に陸軍技術少将になった者がおり、その影響で初め海軍兵学校を志して受験したが、体格貧弱のため不合格。その後感ずるところあって明治学院神学部に入学。
 マデン夫人編著(明治42年)その他によると江川は、明治31年11月、小石川関口教会で石川角次郎牧師から受洗した後、明治学院神学部に入学したが、聖学院神学部が開設(明治36年2月)されるにおよんでここに移り数ケ月在学したという。
 これより先、明治33年3月、宣教師内の紛議で関口教会が一時閉鎖され、石川角次郎、宮崎八百吉らが小石川独立教会を創立したとき、これに加わり、伝道に協力した。
 明治37年11月、福島県原町教会の牧師として赴任したが、それはこの教会の創立者建部猪吉が神学校に入学したためであった。39年に建部が神学校を卒業したので、江川は10月に原町教会をやめ、その後桑折教会(従来の講義所が昇格)の牧師となった。
 41年6月、女子聖神学郭を卒業した高久つや(原町近郊の出身)と結婚、42年6月宮城県の佐沼教会に赴任したが、二、三ケ月後同町に大火があり、講義所も焼失したので、原町に戻って伝道することになった。原町の建部は41年11月東京府下八王子の講義所に転任したからである。
 江川は昭和14年9月、61歳で天に召された。子供は全部男で七人さずかった。

 江川(高久)つや  福島県原ノ町近郊に生まれ、福島教会で導かれた。(女子聖学院神学部41年)卒業後にただちに江川七郎牧師(当時桑折教会)に嫁し、原ノ町、木津川、水戸、取手、ついで大阪でマデンの独立伝道を助けた。永眠。(デ史P763)
 福島新町教会の創立百年記念誌に寄稿された婦人伝道師斎藤まきの娘田中景子さんの手紙の文中に、母親の思い出話として、「明治三十八年十月上京して仙台や原の町から入学される方と一緒に上野駅でクローソン先生や河村きよみ先生のお迎えを受けて、その当時の築地の校舎についたのでした。きびしい創立時の寄宿舎生活のあと、四十年に滝野川の新校舎に移り、教会奉仕や亦東北への伝道旅行など一生懸命皆さんと力を合わせて歩いたとのことです。」とある(P37)。
 原の町から女子聖学院に入学したというのは明治41月6月の第二回卒業だから高久つや以外にない。つやの若き日の熱心な信仰と献身の姿がここに見える。
 また明治42年8月22日の福島民報に、当時の原町デサイプル教会員たちの姿がある。江川牧師夫人としての、つやの若き日の原町での姿もあった。

「○原町青年音楽隊」
〔既報の如く相馬郡原町青年音楽会は去る十八日午後六時より原町座に於いて開会したるが場内場外は紅提灯を以て装飾し聴衆無慮五百余名会長佐藤政蔵氏喝采場裡に開会の辞を述べ終れば江川夫人のオルガンに連れて場に登れるは日曜学校の少年隊『これは私しの』のと無邪気なる遊戯続いて花の如き少女隊の合唱あり・・〕

 この時のオルガンは今も原町市南町の青田信一氏が保管している。

 佐藤政蔵の子孫に伝わる原町基督教会関係の写真に、江川牧師、河村牧師、千葉牧師を含む当時の信者らの姿が写っている。政蔵の子供たちはみなデサイプルの洗礼を受け、教会学校に通っていたが太平洋戦争によってプロテスタント・キリスト教会はすべて日本基督教団に統合されたため、その他の信者らとともに日本基督教団原町教会に合流した。

ひげの河村牧師と佐藤政蔵や宣教師らと

 歴代牧師 前任地 原町在任  転任地
建部猪吉 桑折 明治32.3–37.10  聖神
江川七郎 小石川独立37.11–39.10  桑折
建部猪吉 桑折   39.11–41.11 八王子
河村洋次郎 福島大正3.4 –7.4  辞任
菊地次郎 白河   7.10–9.7  天王寺
千葉儀一 聖神   9.7–15.3   玉出
多田吾助 留学  15.11–昭和5.11 福島
野口敏雄 本荘   5.11–7.9   辞任
佐藤 博 福島   8.9—10.   

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