カマボコ兵舎での礼拝

 昭和23年のこと。「アメリカ駐留軍百名が、原町に派遣され無線塔下に住居をつくり、テントを張って駐屯しはじまった。感情もからみ、彼らとの間にも問題は多く、心痛む日々であった。
 青少年非行化が、目にみえて悪化し、ちんぴら横行のときでもあった。」

 と当時の町長だった渡辺敏は回想録「原町こそわが命」に記している。

 原ノ町駅から護送中の囚人の米兵が脱走し、何度か原町キヤンプからAP(陸軍警察はMP)だが空軍警察はエアフオース・ポリスなのでAP)が出動している。小さないざこざは沢山あった。女をめぐる喧嘩。酒のからんだトラブルや金銭上のこと。感情的な軋轢。こうした精神的荒廃をやわらげようと、ある日、米軍キャンプの部隊長が、原町橋本町に出来たばかりの原町カトリック教会を訪問し、神父のヤシント・エベール氏にキャンプ内での日曜礼拝を依頼しに来た。昭和27年頃のこと。
 「それまでに、二、三の兵隊は教会まで礼拝しに来ていたのですが、全員の礼拝をして下さいと頼まれた。私はカトリックですが、よろしいですか、と念を押すと、それでもいいから、という。それで毎週ジープでキャンプまで送ってもらい、カトリックの信者もプロテスタントの信者も基地の中で合同で礼拝いたしました」
 とエベール神父は述懐する。同神父は、カナダ生まれ。年少から伝道の意思を抱いて日本に派遣され、東北に伝道していたが、昭和16年の開戦と同時に敵性外国人として拘留されていた。開戦後、外国人を母国に送還する船が出たが、エベール神父はみずからの意思で日本に残った。戦後、最初の任地が、新しい原町の地だった。カトリック教会が経営するさゆり幼稚園の当時の保母さんだった鎌田さんは「アメリカ軍の兵隊たちが土曜日に幼稚園のホールをダンスパーティーの会場に借りて使った。若い保母さんが二人、その二階に住み込みだったので、絶対に下に降りて来ては駄目、と神父さんはじめみんなが心配しました」と回想する。
 朝鮮動乱はむしろ日本の戦後復興の経済的刺激となって戦争景気を招来した。昭和26年2月の原高新聞のトップ記事は「特需大して影響なし」という、就職状況に関するもので、仕事にありつくのが、まず最大の関心事。
 また、映画紹介や社会探訪などの記事が多くの抵面を占めて、戦後の開放的も雰囲気を伝えている。
 キリスト教会もまた新たな「文化」の先端で、英語を勉強したいとか、外国に興味があるという高校生などが多く出入りした。明治期のブームの再来だった。

 さゆり幼稚園の創設から40年

 平成5年(1993年)、さゆり幼稚園は創立40周年を迎えた。

 記念のマリア像を寄贈
 保護者かからエベール神父へ
 原町市橋本町のさゆり幼稚園は昭和28年に創立、今年で満四十周年を迎える。
 四十周年を記念して三月八日午前十時から同園ホールで記念式典。十一時三十分から南町の出雲会館で祝宴が催される。
 式典はヤシント・エベール神父延長と関とみ副園長が原町の地に住んで四十年になることから、お礼をこめた記念式典にしたいと関係者は準備に追われている。式典上相馬市の絵画教室主宰倉本信之さんが半年かけて制作したヤシント・エベール神父の肖像画を贈呈する。
 贈呈されるマリア像は「無原罪の聖母」と呼ばれるもので、人間ではあっても罪のない純粋で気高い聖母の魂を造型。鮮やかな青色の外衣を羽織り、慈愛にみちた表情でうつむき加減に人々を見守る姿の像。保護者会のお母さん方が選んだ神の母と呼ばれるマリア像に「母の愛」を託して、園庭で遊ぶ子供達を見守ってくれるようにと園舎の外に設置される予定。現在木製の覆いが製作中だ。
 園長のヤシント・エベール神父は一九○九年(明治四十二年)一月四日カナダ、ケベック州聖ヤシント市生まれ。カナダの小神学校、大神学校を卒業。司祭として日本へ宣教のため渡来。しかし昭和十六年に太平洋戦争が始まると外国人収容所に抑留された。
 戦後の二十一年、青森県八戸に赴任。私立白菊小学校・中学校・高校を創立。原町に昭和二十六年、カトリック教会が創建されたため、原町に赴任。昭和二十八年、さゆり幼稚園を創立した。
 関トミ副園長も四十年間、エベール神父の片腕として創立以来さゆり幼稚園を支えてきたが、保護者会および職員一同は二人に感謝をこめて記念式典を挙行する。
 さゆり幼稚園の設置者は聖ドミニコ修道会。昭和二十八年に県の認可を受け、現在は三○二一平方メートル(九一四坪)の園地に、約六○四平方メートル(一三八坪)の園舎。卒園児数は四四九○名にのぼる。
平成5年(1993年)あぶくま新報2月28日283号より。

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