●原町キリスト福音教会の歩み

 ノルウェーより来日した2名の宣教師が、原町の地に福音を宣べ伝えてから40年が経過しました。当時の原町には、日本基督教団原町教会と原町ホーリネス教会の2箇所の教会がありました。2名の宣教師は、町内に生活のための家を借り、また、集会もできる場所を捜しながら伝道が始められました。
 1959年4月橋本町にある家を借り、集会所として使用することができました。この集会所では日曜日には、日曜学校・礼拝・伝道集会、金曜日には祈祷会を行っていました。また、各創区の子供たちのために、太田、桜井、石神の3地区にて子供会を行っていました。後に、この子供会から、イエスを救い主と信じる勢名の人がおこされました。新会堂の建てられる1969年までの10年間に約25名が新しく群れに加えられました。
 1969年8月24日新会堂の献堂式が行われ、原町市内の教会を知らない方々にも目に見える教会となりました。当時の教会員は、現住陪餐会員3名、地方会員2名の小人数でした。また、残念なことに親しく群れに加えられた方々の内、20名もが家庭の都合等の理由により非陪餐会員となっておりました。集会は、聖日礼拝、伝道会、聖書研究祈祷会、家庭集会およぴ原町、磐城太田地区の2箇所にて教会学校が行われていました。以後10年間の内に、婦人の方々を中心としての婦人会およぴ聖書の学ぴと生け花、新たにできた仲町団地に於いては、子供たちへの伝道のための仲町子供会、宣教師の英語の語学力を活用し、若い人へ英語を通してのヤングタイム等、それぞれの地区・時期のニーズに応える集会を行っておりました。新会堂を建ててから10年後の教会員は、現住陪餐会員10名、地方会員5名、残念なことに非陪餐会員が17名でした。また、この間に原町キリスト福音教会としては、最初の新しいクリスチャンホームが誕生しました。以後、第一種教会に向けて、教会員が徐々に加えられ12年間には4組の新しいクリスチャンホームが誕生しました。新しいクリスチャンホームが誕生したことになり、年々子供たちも加えられました。会堂が新しく建てられた当時は、会堂が広く感じられたことでしょうが、今日では、礼拝の平均出席者数が大人19名、子供11名と、会堂が狭く感じられます。(東洋宣教団40周年記念誌より)

ノルウェー宣教団の布教

1952年、中村で宣教師たち。

photo by C.Rowland in Modesto California

 アメリカの元原ノ町空軍駐留兵士たちに「ヤシント・エベールというカナダ人神父を覚えているか」と、手紙で問い合わせた。ローランド氏と、トレーシー氏の返答は「ノールウェー人宣教師なら知っている」というものであった。
 この40年余、原町、相馬と北欧ノルウェーとの間には絆がある。原町市史と続原町市史の筆者とは、このノルウェーの東洋宣教団については全く無知のようだ。市史には、この東洋宣教団の原町キリスト福音教会については全く言及がない。教会堂が建設されて十字架が掲げられたのが昭和44年だから、市史発行の43年には原町市民にとって「見えない教会」であった(電話帳には載っていたが)。
 しかし教会が建設されて12年たった昭和56年になっても、旧原町人の原町市史続編の筆者には、駅東に建った教会の姿は「見えない」ままだ。「続編」はエホバの証人やモルモン教など、キリスト教世界の異端とされている団体さえ掲載しているのに、正統扱いのセブンスデー・アドベンチスト教会が原町に誕生したことも知らない。
 北欧諸国は国旗に十字架を意匠しているようにキリスト教を国教とする国である。北欧ノルウェーから国をあげて中国へ伝道していた東洋宣教団は、1949年の中国共産軍命によって国外追放となり、このため同宣教団は伝道先を台湾および日本へ転じた。日本伝道を開始するにあたり、どの地区に伝道するかを検討した時に、賀川豊彦の助言でキリスト教普及の最も遅れている地域として福島県の浜通りが選ばれたという。
 以下は浜通り相馬中村と原町での東洋宣教団の動き。
 1951年(昭和26年)5月、責任者インクワード師が中村へ。字北町で伝道開始。当時は聖日礼拝、祈議会は日本キリスト教団中村教会へ出席。毎週土曜日のバイブル・クラスだけを中村北町の宣教師館で開催。6月26日、A・スエンソン師、ブルスダード師中国から中村に着く。同七月、A・M・クワルメ師、H・グンレスヒー師、中国から中村に着く。
 1951年{昭和26年)10月、A・M・クワルメ師、R・コーラス師が原町へ。同年12月、I・M・ヨハンスン師が原田了に着任。55年12月まで奉仕活動。
 1952年(昭和27)から57年8月まで5年間は原町ホーリネス教会と合同で活動。
 1953年(昭和28)6月、コーラス師植田へ。
 1954年(昭和29)2月、A.ブルスダード師着。3月、クワルメ師帰国。
 1955年(昭和30)10月19日、A・ブルスダード師帰国。ヨハンスン責任者来る。同年12月、B・ホルゲン師着。~61年6月まで。A・クヌッッン師着。
 1956年く昭和31)ユ2月、A・M・クワルメ師着。~58年6月。
 1957年(昭和32)6月、グラブグレグ師着。~62年9月。この時代には、この北欧福音はキリスト教宣教師たちは市井の民家に間借りし、教会の尖塔もなく、十字架を掲げた会堂もなかった。信者の家庭に集まっての日曜礼拝が続けられていた。
 1966年(昭和41)年9月からは、外国人宣教師から日本人の小嶋千代師に委ねられ
 1968年(昭和43)には黒田昭一牧師(現在の教団理事長)が着任。(~73年)
 1963年(昭和44)に待望の教会が建設され、8月に献堂式が行われた。橋本町における1O年4ケ月にわたる集会は終わった。
 錦町の教会は今日ですでに40余年を迎える外国宣教団の援助も脱して自立も果たした。ともあれ町の一角に世界に通じた小さな穴が開いていた。カタカナ名の外国人がこれほど往来していても、ほとんどの住民には無縁であった。戦後とは第二の鎖国 が解かれ、外国人がやって来る現象だったのか。好奇心の盛んな青年会議所のメンバーが、外国人が住んでいるというので訪問し、インタビュー記事を同会議所の機関紙に載せたことがある。2人の老婦人宣教師は再度の原町在住で、昭和30年代にも伝道布教のために原町に在住していたことを懐かしそうに語っている。
「その当時は原町は何もない町でした」と。
 彼等は日本語がペラペラで、あまりに日本文化に染まってしまって母国ノルウェーに帰国すると、逆カルチャーショックで母国での生活に順応できない牧師さえあると聞いた。そのため普通の市民との接触を避けて生涯を暮らす退役伝道者のための家があるとか。地方の小さな町に、外国向けての小さな穴が穿たれたのは確かなようだ。

東洋宣教団の伝道
中村キリスト福音教会の創立
原町キリスト福音教会歴代教師・第一種教会への昇格
ノルウエー女性宣教師のインタビュー

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