大正十二年(一九二三年)九月京浜地方大震災が発生し、基督教会でも罹災民救済運動を起したので小高教会も町内に募金を呼びかけ、金拾六円拾参銭の募金があり現地に送金した。
大正十三年(一九二四年)八月には相馬地方各派教会の夏期臨海学校が新地海岸で開催され、小高教会からも木幡茂男他日曜学校生徒数名が参加した。同年林伝道婦は結婚して東京に去り、鈴木瑛子姉が伝道を助けた。この年来訪して伝道を応援した人々は五十嵐正氏(東北学院)、宣教師ヌーゼント、坂内実喜牧師(三春)等で四、五〇名の来会者があったが、定期集会は余り賑わず礼拝一○名、日曜学校四〇名であった。
大正十四年(一九二五年)十一月成瀬牧師は会津高田教会に去ったあと暫らく定住者はなく、原町から佐藤信雄牧師が出張したが、間もなく原町を去り、昭和二年(一九二七年)八月飯坂教会から瀬尾政夫牧師が着任して漸く定住牧師を与えられた。

瀬尾政夫牧師

そして久しく不定期だった各集会を再会しクリスマスには二百名余の会衆があった。昭和三年(一九二八年)には男子四名、女子一名計五名の受洗入会者を加えられ、教勢も徐々に整備されて来たが、瀬尾牧師は病弱のため臥床の時期が多く、原町教会から諏訪牧師、浪江伝道所から蓬田吉次郎牧師の応援を受ける他東北学院神学部生の伝道旅行、ノッス宣教節や小林亀太郎牧師の特別伝道を行なった。
尚教会員名籍を整理し、所在不明者や長年教会に義務をなさない者等十一名を整理した。
昭和三年来の教勢報告には現住会員男子七名、女子五名、小児四名、合計十八名。他住会員男一名、女三名、小児三名、計七名とあり、礼拝出席者は平均七名、日曜学校出席五十二名となっている。昭和四年(一九二九年)も引続き瀬尾牧師病床のまま原町教会から鶴沼よしえ婦人伝道師、浪江から蓬田牧師の応援を受け、昭和五年(一九三〇年)には、諏訪牧師に代って原町教会に赴任した小林寿雄牧師等の応援を得て集会を続け、その間、ミッション伝道開始五○周年記念伝道のため小平国雄牧師(東京神田教会)が来高して、特・伝道を行なった他東北学院教授矢野猪三邸、宣教飾アンケニー氏、杉山元治郎氏等の特・集会を開き四、五〇名の来会者があった。昭和六年(一九三一年)には瀬屋牧師は病弱のため牧界を去り、間もなく他界された。その後は無牧状態のまま原町教会から小林牧師と細川モト伝道婦が出張し、昭和八年(一九三三年)小林牧師が原待ちを去ってからは、浪江伝道所の蓬田牧師が週一回出張することとなり、教会役員渡辺安、木幡茂男両氏が教会の管理に当った。

六、戦時中の教会
–昭和十年から終戦まで-…
昭和十年四月から原町教会に着任した小野寺恭治牧師が、小高教会を兼務することに成ったが、既に当時は思想取締りが厳重になり、特高課の新設、憲兵隊の思想係設置等により、日本共産党の検挙が盛に行なわれることに成って、宗教界にも、宗教団体法案が反対運動にも拘らず国会を・過し、国家総動員法が公布されるなど日本は一路ファッショ化に向う時で、キリスト教の伝道にも種々な影響があり、伝道の困難に突入することになった。
昭和十三年(一九三八年)には米国教会の援助から離れようとする牧師と時期尚早として従来の関係を持続しようとする牧師とが対立することに成り、東北中合は前者を主張し、後者に属する人々は新に奥羽中合を設立し、各教会はその所属を決定することとなって、小高は奥羽中合に属した。小野寺牧師は原町教会との意見を異にし、昭和十三年十月小高に定住することに成り、久しく無牧であった小高教会も漸く活気を取り戻すことに成ったが、時代は教会活動にとって、極めて不利な状況に成りつつあったので、主として日曜学校を中心に教会活動を続けた。小野寺牧師は地域に奉仕することと日曜学校幼稚科の教育の整備を考えて、幼稚園を開設することとし、地域の人々の協力を得て、昭和十四年(一九三九年)四月園児の募集を行ない、鈴木さだを姉を主任として教師一名をもって園児四〇名を収容し、小高幼稚園を発足した。これは小高町に於ける幼児教育の先駆である。
小野寺牧師は、困難の中に伝道と幼児教育に専念したが、時代に相応した事業を目指して青森県に去り、後事を教会役員及鈴木さだを姉に託した。然し教会員は減少し僅かに山田弘氏、木幡茂男氏、橘定彦氏、鈴木瑛子姉等が教会を維持したが伝道活動は全く閉鎖され、幼稚園児も二、三〇人に止り、更に基督教会全体が苦境に立たされた結果、小高教会は有名無実の存在に成った。そして昭和十六年(一九四一年)国策に基いてキリスト教三十三派は合同して、同年六月日本基督教団が設立されたが、無牧であったことと責任者が明確でなかったことにより、小高教会は日本基督教団の教会名簿から脱落した。教会堂は荒廃し、その中で幼稚園が細々と経営を続け、時には会堂の接収の危機にも臨んだが、山田医師、木幡茂男氏等の努力により漸く接収をまぬがれた。
第二次世界大戦は苛烈を極め、日本は無謀な戦線拡大によって世界を敵として戦う結果となり、昭和二〇年(一九四五年)世紀の敗戦を喫し、五年余に亘る戦火はその幕を閉じることとなった。(成瀬稿)

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わたしにとってもっとも古く、はっきりした記憶は、四、五歳の幼児期に誰からも説明されずに脳裏にきざまれた映像は、当時の隠居屋の祭壇に飾られてあった小さなセピア色になった写真です。それは私の生まれる前年(明治四十四年)に亡くなられた曾祖父が大きな聖書を両手に持って、朗読でもするように立っている姿でした。あとできいた話では、当時小高町には数少ないクリスチャン家庭の当主として、教会では「アブラハム」という渾名をいただく程の熱心な人物として、村人からも尊敬されていたことなどよく母から聴かされたものでした。四、五歳頃の私がどうしてはっきりと覚えているのか不思議でなりません。
(ささきちよ手記より)

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