昭和の原町基督教会

 大正から昭和初期にかけての原町基督教会は多田吾助牧師のもとにあった。デサイプルス史と当時の新聞から織りまぜてみよう。

多田吾助牧師

 多田吾助  多田(天野)吾助は明治24年12月、福島県相馬郡(現在の鹿島町)八沢村の農家天野家に生まれ、小池の多田家の養子となった。どちらも裕福な家庭である。八沢村は干拓事業が行われており、若き日の杉山元次郎が出張伝道を行っていた土地でもある。
 明治42年4月、東北学院普通部に入学、在学中の43年10月に仙台教会で受浸した。大正3年、同普通部卒業後、専門部神学部予科に入学したが、同年12月中途退学して歩兵29連隊に入営。5年3月には見習い士官になった。その後除隊となり、同年10月、聖学院神学校に入学した。
 大正9年6月、同校卒業とともに、秋田県本荘教会牧師となり、4年近くここで伝道。13年3月辞任して渡米。テネシー州ナッシュビルのヴァンダービルト大学(秋田にいたハンター宣教師の母校)で神学を学んだ。
 大正15年帰国。11月から4年間、福島県原ノ町教会で牧会に当たったが、彼は特に農村伝道に関心を寄せ、鹿島町に講義所を開設した。
 相馬市史は、昭和の初期の鹿島地方について、次のように記す。

鹿島伝道 多田吾助牧師(原町下町教会)の熱心な伝道の結果、西畑亀雄、天野有平その他が真野川で浸礼を受けた信徒の群がある。原町教会牧師諏訪修治氏も当時(大正十四年)東北中会宛報告の中に「鹿島町は余程以前に当地(中村)から出張して集会が続けられた所ですが、近頃数名の信者、求道者が出来ました」と報じている。

 多田牧師の原町教会時代  デ史に記述される部分を引用する。(P410)
 大正一五年三月、千葉牧師は大阪出教会へ転任し、しばらく無牧期間を経て、同年一一月に、米国留学から帰国した多田吾助牧師が着任した。「多田は二カ年米国で勉学した後原町教会の牧師となったが、彼は農村伝道に特に感心を持っており、隣村で週一回集会を開くことになった。原町教会は平均出席二○名以上という有力な婦人会を持っている」(ミッション報告)。
 多田牧師の大正一五年度報告、「在籍会員一三四名、献金会員二六名、受洗者五名、転入復会者三名、転出退会者二○名、礼拝出席一五名(無牧中七~八名だったため平均は少ない)、婦人会出席平均一○名、伝道所として鹿島町に講義所開設、一○名内外の出席者あり、日曜学校生と四五名)。
 昭和二年の教勢はつぎのとおりで、いちぢるしく好調を示した。献金会員四八名、受浸者一八名、礼拝出席者原町二一名、鹿島講義所二五名、祈祷会原町二○名、鹿島一七名、日曜学校(原町、鹿島)生徒数九○名。
 昭和三年二月の機関誌「十字架のしおり」三八号によると、教会総会は一五年後の独立することを議決し、役員として長老星信順、執事今野重雄、青田務、佐々木仁、平田キヨ、深野富を選んだ。
(デ史P410)
 昭和3年9月30日に信夫郡大森村(現福島市)にデサイプル大森教会が設置され、仙台教会から横山虎雄氏、東北学院スミス教授、福島高等商業学校教授、福島地裁検事正、加勢清雄福島県知事、小杉善助福島市長らが参列し祝辞を述べた。教会堂の献堂式がおこなわれ、多田牧師は原町教会牧師として出席し、式典で聖書朗読を行っている。
 こうした献堂式の記事をみると、教会が当時以上に地域にとって重要な存在であった事が判る。
 
 多田牧師福島教会へ 多田牧師は昭和5年11月福島教会に転任。42年7月76歳で引退するまで37年近くの長きにわたって熱心に伝道した。彼は市内および県下の各学校を回って小学校教師に対する伝道に力を入れた。そのほか、刑務所伝道も行った。
 刑務所伝道というのは、戦後の混乱期に全国を揺るがせた松川事件の被告を獄中に訪問伝道し、「真実を語りなさい」と教え嘘の犯行自白を翻させた、というエピソードなどがある。

 昭和9年の記録。
 教会内新生館には今回地方青年指導上その中心をなす小学校教師のため、「教育の根本問題と基督教」と題する小冊子一〇〇〇部を第一回分として信夫郡内の教師一人一人に配布、牧師は目下各小学校を訪問して講演を試み質疑に応じている。(『基督教会ニュース』への報告昭和九年一二月)

 一九四六年(昭和二一)五月、東北教区総会が開催され、新町教会が会場となり多田牧師が副議長に選ばれた。
 一九四八年頃、新日本建設基督運動がおこされ、福島地区連合祈祷会が、新町教会において行われた。多田牧師は聖日礼拝を重視するとともに、牧会活動に家庭集会、学校訪間、路傍伝道をとりいれ努力した。家庭集会はそれぞれの家庭がそのありかたを工夫し、また日取りその他を調整した。学校訪問は訪問先の学校にバイブル研究会を作ることに努力し、学校新聞にも執筆の労をとる。路傍伝道は旧鈴蘭通りの常陽銀行福島支店前で行った。
 牧師はまた福島刑務所の教戒師を委嘱されていた。受刑者に接し温かく善導に努めた。このとき、昭和史に残る松川事件(一九四九年八月一七日東北本線松川。金谷川問で列車が転覆)の冤罪者の一人に接し、聖書の言(使徒五の二九、マタイ五の三七)を教示した、という。
 昭和42年7月、福島新町教会牧師を引退し、45年9月天に召され、皆別式は福島新町教会で深瀬牧師司式で行われた。
 家族は一男三女あり、長男剛は東京神学大学を卒業し、その後中央児童相談所、相馬社会福祉事務所に勤務。
 昭和5年のデサイプル史の記述(p231)によれば、この11月に牧師の異動で多田が福島教会へ移ったのにともない、本荘教会から野口牧師が原町教会へ赴任した。

 本荘の野口牧師原町へ 原町教会の後には本荘の野口敏雄牧師が一一月着任したが彼は当時のことを後年(昭和四十五年)つぎのように述べている。
 「昭和五年秋、神の国運動の賀川氏が来荘、町の公会堂で大伝道会を開き二百余名を集めたが、これは同町未曾有の大伝道集会であった。その後私は教会運営に関し婦人伝道師・婦人宣教師と意見の対立を来たし、原町に移った。ここは人口一万余の沈滞した町で、私の在任中土地の人々からはついに一名の受洗者も出なかった。」

 野口敏雄  昭和5年11月~7年在任
 明治39年2月、東京生まれ。大正10年に四谷仲町基督教会(現若葉町基督教会)で受洗。12年4月、青山学院神学部に入学。昭和4年卒業。卒業論文は「リッケル神学における哲学的基礎」。本荘教会に牧師として赴任。
 〔昭和五年一一月に原町教会へ転勤した。この教会は町端れにあった。教勢はすこぶる不振で、在任中土地の人々からは遂に一名の受洗者も出なかった。冬の間自分はしばしば臥し、風土も気候も人心も自分には全く不向きの地であった。失敗の地というべきであろう。
 この頃、米国経済恐慌から教会に対する援助が打ち切られることになり、総務委員会は各教役者に対し、自給伝道をするか、さもなければ辞任してもよいと通告して来た。たまたま満州事変の最中であり、自分は義弟に家伝の日本刀を譲るべきかどうか、ひいて国家対信仰者の態度について大いに悩み、早晩聖職を辞すべき心境になりつつあったので、直ちに辞任を申し出た。昭和七年九月のことである〕(昭和43年、本人記)
 野口牧師はその後上京して高橋経済研究所に入所。戦後は生産性本部に移った。財団法人東京クリスチャン・ミッションを創立して理事長に就任。
 神学校を卒業の直前結婚して、本荘、原町での伝道を共にした妻は研究所生活にはいって間もなく永眠。野口氏は昭和11年に再婚している。
         
昭和7年の教会信者ら 野口牧師送別会で

 アメリカ・ミッションの打切り

 青田信一氏は昭和7年に洗礼を受けた。多田吾助牧師と野口牧師を覚えている。ちょうど両者が入れ替わった年だ。
 「教会の牧師はどうやって暮らしているのかと、父親に聞いたことがある。アメリカの宣教会からの援助によって給料をもらっているのだと教えられた」
 という。青田氏は大正12年生まれ。洗礼は10歳の時。新田川で浸礼された、という。父がクリスチャンだった。その強い希望だったろう。昭和7年ころだ。
 「この年には、アメリカの不況によって、また満州事変をめぐる日米間の関係もだんだん険悪になってきたころで、援助が打ち切られた」という。
 援助打ち切りについて『ディサィプルス史』から拾い出してみると(デ史p405)
 一九三二年(昭和七)、米国の経済不況のため米国伝道本部は、宣教師の引き上げや対日援助の打ち切りを断行、福島のクルードソン夫妻は、七月に帰米した。

 佐藤博 そのころ、「佐藤博という民友の記者が原町支局に転勤して来たが、昭和7年から牧師代理のような形で伝道していた」と青田信一氏は記憶する。
 かつてのデサイプル教会だった福島新町教会の創立百年記念誌の年表には、佐藤博という信者名はないが、昭和7年に受浸した信者として「佐藤傳」という信者名が掲載してあった。字面がよく似ている。ほかの人名が見当たらないので、この人物のことではないだろうか。
 昭和7年の福島民友新聞を精査してみたが、当時の原町支局の記者は判別できなかった。原町に関する記事は原町競馬ぐらいのもので、ほとんど見かけない。
 相馬地方の最大の祭礼である相馬野馬追には、例年地元新聞に町の名士たちや、有力企業が名を連ねる。7月11日は原町方面の広告が4段、12日には中村町関係の広告が8段掲載されており、量も数も中村が中心である。中村の広告はことに支局開設一周年記念とある。民友は原町にも支局を設けていたが出稿量は中村に比較して極端に少ない。
 さらに昭和8年の福島民友でも、原町の記事はほとんどなく、中村町のものばかりである。7月恒例の野馬追広告には中村支局主任という記述が見られるが、原町のものがない。中村支局長の名前は大木久夫といい、しばしば紙面にも登場する。昭和6年の民友に原町支局長K.Kという署名記事がある。のちの昭和9年頃の支局長随筆というコーナーには原町支局木幡清という名が出てくるのでこのK.K氏であろうが彼は佐藤政蔵の妻の兄で、佐藤傳というのは残念ながら見当たらない。
 昭和8年の記録として、デ史には佐藤博という名でのレポートがある。したがって傳というのは博の誤植であろう。

 野口牧師、佐藤伝道師  昭和五年一一月、多田牧師は福島教会に転任し、後任に野口敏雄牧師が本荘教会から赴任してきた。野口牧師の昭和六年度教勢報告、「献金会員二八名、受洗者なし、礼拝出席平均七名、伝道会一六名、婦人会五名、日曜学校二校、生徒八五名、日本無線原町出張所の社屋を借りて五月から日曜学校を開いている。神の国運動として四月に佐藤繁彦、一○月に賀川豊彦を迎えて集会を開いた。
 昭和八年度の原町教会報告、「八年計画で託児所、農村伝道、無料宿泊所を作る運動を進めて来たが、目的を達成できずに終わった。しかし無料宿泊所の意味で一月以降、夫が行方不明になった婦人と子供六名を牧師館の一室に寄宿せしめている」。
 「九月から、年会で報告のとおり、福島教会員佐藤博を信徒総会で伝道師と承認し、原町とその近在町村で伝道をしてもらっている」(デ史P410)
 昭和8年の原町基督教会についての記述は次のとおり。

 昭和八年一二月の「基督教会ニュース」(総務委員会発行)所報、「原ノ町教会、(佐藤博報) 小生原町に来てより日浅きため、日曜夜の礼拝は一四、五名、日曜学校生と四十名、貧民児童への路傍日曜学校も開催の予定である。」(デ史P241)
 上記と重複するが同じ報告がデ史P410にも掲示され、こちらには「日曜夜の礼拝も毎回一四~五名、日曜学校生徒四○名、教師は星信順兄を校長に五名の兄姉。」と、やや詳しい記述があり日曜学校担当の信徒名も登場する。

 昭和9年には、次のような佐藤の報告がある。
「原町教会(佐藤博報) 四月より保育園を設け、真の幼稚園にするため努力中、九月二日の就任一周年記念には六名の受洗者があった。」(デ史P240)
 これも同じ内容がデ史P411にある。

 九年一二月の「基督教会ニュース」所報
「小生原ノ町教会に就任して一年、四月よりは保育園を設けて会員の諸兄姉とともに働いている。九月二日の就任一周年記念式には六名の受洗者があり、各集会はいずれも一○名内外の出席。東北地方、ことに相馬地方は不作のため困窮している。」
 佐藤がいつまで原町で伝道していたかは不明だが教勢報告は昭和一四年度まで出ている。一六年成立の日本基督教団には加入していないので、その前に自然消滅となったものと思われる。」
 「いずれにしても、教団の昭和一六~七年度教勢報告には成城、小岩、原町、酒田各教会の名は見えない」(デ史P239)
 しかし自然消滅ではない。
 後述するが、昭和15年の時点で、原町町内のメソジスト教会、デサイプル教会が代表を出して、日本基督教団の発足を前に合同のための綿密な打ち合わせを兼ねて、共同伝道を協議したのである。むしろ教会をとりまく情勢を読んで、先取りした格好なのだといえる。
 のちに(昭和10年に)原町教会は無牧になったらしい。教役者ではなく信徒が教会代表で年会に出席している。
 昭和10年の原町教会からの年会出席者は渡部勇。
 昭和11年の原町教会からの年会出席者は代員の紺野重雄。年会負担金から教勢を見ると、原町教会は10円で他教会と比較して平均的な額。福島教区のうち原町教会(武藤弥三郎報)の献金会員五名。
 昭和12年には天王寺教会の畑中牧師が東北を巡回し原町でも国民精神総動員特別伝道講演を行った。この年の年会出席者は小林利。(デ史P251)
 昭和13年には信徒武藤弥三郎がデ派の年会に出席して報告を行っている。
昭和14年の年会出席者は武藤夫妻。教団初の信徒協議会が開かれ、これにも出席。 昭和15年の連合青年会には武藤弥三郎が原町から出席。地区のキリスト教の会合には信徒の武藤弥三郎と青田務がデ派を代表して出席している。
 昭和16年8月16日付けの警視庁特高二課へ提出した基督教会報告書の記述には
「原ノ町教会 多田吾助(兼任)」(デ史P273)とある。
 太平洋戦争の開戦のこの年、プロテスタント教団の合同によって、原町基督教会は消滅した。信者は日基教会に統合され、建物は福島の多田牧師が管理することになった。

 教会での活動写真会

 大正15年生まれの布川雄幸は石神村の農家の生まれで、父は渡辺滝蔵氏といい内村鑑三に私淑する人物で、原町デサイプル教会員。自宅の土間の黒板に「今日の聖句」を白墨で記すなど、聖書を生活の指針にしていた。息子の雄幸氏が洗礼を受けたのは戦後の昭和20年のこと。少年時代の雄幸少年は、日曜礼拝に向かう朝、農家だった渡辺家から月例献金の代わりに野菜などを持たされて、「礼拝出席の前に牧師館の牧師に手渡すように」と言いつかった、と回想する。
 多田吾助牧師の時代である。

 布川雄幸氏はのちに映画好きがこうじて原町の常設映画館である朝日座の経営を受け継ぐことになる。養母の布川キミの回想によると、昭和7年ころに「肉弾三勇士」が話題になった。日活、新興、河合など映画会社が競って制作して全国で賑わった。興行的に成功できる見込みがあるので布川夫妻も原町にこの映画を持って来たかったが、こういう人気映画は滅法値段が高い。補償金を積まないとフィルムを回してもらえないので、キミは質屋に着物を運んで金策し、人の目をはばかって帰りは裏口から出てきた、と語ったことがある。
 昭和7年8月21日民友に「中村基督映画」という教会消息を伝える記事がある。

 中村基督教会では二十一日午後七時半より同会聖堂に於て伝道活動写真会を開催するが入場無料で一般の来場を歓迎すると

 当時の映画上映は珍しかったから、内容がどんな映画であれ新聞記事になった。しかしキリスト教会のような閉鎖的な共同体の内部の行事が、このような記事になる例は他に皆無である。
 この記事は青田氏のいう佐藤記者によるもののような印象がする。
 
 中村教会での映画会について、また相馬地方一円の日曜学校活動についての昭和初期の回想を同教会の長老信徒であった鎌田昌次郎氏が書き残しているもので紹介しよう。

 或るクリスマスの時、九ミリ半の映写機を持って行き、当時有名だった「クリスタス」というキリストの生涯の映画を見せた。その頃は珍しかったので多くの大人も集り、部屋に入り切れず寒いのに外に群がって大騒ぎとなり、取り静めるのに一苦労したことがある。然し之に依り、少しでもキリストを知らせることが出来たのは嬉しかった。鹿島にはまだ教会は無かったが、民家を借りて日曜学校の分校を開き、ここにもこちらから通って教えた。宮城学院のブリック先生が応援に来て下さったことがある。
 日曜学校教師会は此地区に日曜学校部会を結成することを考えた。原町の石川製糸工場長石川氏は熱心なクリスチャンで工場内で礼拝もし、又日曜学校も開いて居られた。そこで浪江、小高、原町、石川、中村、鹿島、釣師の七校が部会を作った。形式に捕われることなく、特に組織も規約もなく、極めて自由で、時に応じて主の御用の為に協力しようというのである。
 先ず第一にその仕事の一つとして昭和二年五月一日に宣教師や、其他の講師を御招きして野外礼拝や、運動会を中村の上水道水源地の敷地で行った。七つの地区から約三〇〇名の教会員及び生徒の参加があり、各教会と親しき交流が出来、霊的にも満たされたよき集りであったので、三枚一組の絵はがきを作り参加者に記念としてあげた。  
 其後原町に於ては同じような大会は無線塔の下の広場で行われたが、此時は非常に多数の参加者があり、約五〇〇名が礼拝や運動を共にし、睦み親しむことが出来て幸であった。二〇〇メートルの高いコンクリートの無線塔の下部に入って見るとかなり広いので、中から天を仰ぐと遠く高いところに小さい明るい穴が見える。中で口笛を吹いたり、歌を歌ったりすると実に綺麗な反響をして其声が天に流れて行くので、皆んな喜んで盛んに歌った。ここでお祈りすれば忽ち天に届くに違いないと言った人がある。こんなこともなつかしい印象であった。

 同じ時代だが昭和6年6月には川俣町の川俣座で川俣教会の教会堂建設資金造成のための映画会で「キリスト伝」を上映したという記録がある。中村での基督映画会の「クリスタス」と同様のもだろう。
 原町(日基)教会でも、映画会が行われたことがある。昭和10年5月18日の福島民報の「原町短波」というコラムに次のような記事がある。

 幸町通り原町役場東隣の日本キリスト教会ではお子供衆に為めになる活動写真を十八日(土曜)の晩に見せるようになった
お金はいらないみんな入らしやい
 
 気さくな語り口調で記されたこの記事は警察ネタ、行政ネタ、政治ネタのど真ん中にあるが、筆者の自由闊達な筆力もさることながら、教会に近い人物であることを想像させる。当時は、トーキーが出現する頃で、ほとんどの映画はサイレント(無声)である。だから弁士が説明した。映写機械は中村で使われたものの使い廻しかも知れない。当時の映写機械としては九ミリ半という機械が一般的であった。教会で上映された映画は信仰にかかわる伝道を目的とした内容だったろうが、弁士には牧師か長老か説明に弁舌をふるったことであろう。

 賀川豊彦と神の國運動
 
 昭和4年から賀川豊彦の「神の國運動」
がスタートし全国に熱狂的な賀川によるキリスト教ブームを巻き起こした。当時の状況をみるのに当時の新聞から拾ってみると昭和4年には川俣で神の国運動が展開されている。昭和6年には福島県浜通り地方での大伝道集会が行われた。原町での講演は浪江町浪江座での2時半からの集会に続いて12月9日夜原町公会堂で行われ、中野屋に一泊。続いて翌朝8時半からは駅前中野屋旅館とはすぐ隣接の石川製糸工場で女工らを対象に、同日は相馬農蚕学校で、また中村町でも小学校教員を相手に講演した。

浜通りの精神界に一大衝動を起す
 賀川豊彦氏の講演
  同志の決心者だけで五百四十名
神の国運動として浜通り巡演中の賀川豊彦氏の浪江町に於ける会は九日午後二時半より浪江座に於て開会した聴衆の多くは知織階級の男女のみで浪江には初めての賀川氏の講演を聴かんものと定刻前より続々と詰めかけ定刻には七百の会員券が無くなるの盛況、午後一時の汽車が来賓の賀川氏は浪江キリスト教会の人々の出迎へを受け医師大井三蔵氏邸に少憩、定刻浪江キリスト教会蓬田牧師の開辞に次ぎ平町日本キリスト教会中村月城氏の「神の国建設」について賀川氏が病苦をおし決死的の奮闘を続けて居らるる事精を訴へ聴衆を感激せしめ蓬田牧師の祈祷の言葉の後に賀川氏が壇上に立ち「地方文化の精神的基礎」と題して平易にしかも愛にみてる言葉を以て土の文化を高唱し或は二宮尊徳の例をひき隣邦支那の悲惨な国情を説き文化の基礎は「土を愛する」事によってのみ築かれ土をいやしむ事は亡国の始まりであると共に人類の滅亡にいたらしむるものと説きその精神的基礎を「愛」に求め土を愛すると共に隣人を愛せ、社会の各人が隣人愛を以てむすばれる時共同の繋栄は始めて来り平和は来り、人類共栄の実がむすばれると結んで二時間半の講演を終り満場の聴衆をしてやはらかき慈愛のうちに多大なる感銘を与へて五時盛会裡に閉会したが終るや直に相馬郡原町に向へ同町公会堂に於て講演会を開催したが会衆は一千名に達し多大の感動を与へて午後時時半開会同夜は原町中野屋に一泊十日は午前八時半より石川製糸工場に一時より相馬中学校並に中村町付近小学校教員の為めに講演をなしこれまた大センセイションをまきおこしたが同夜新開座に於て開催した講演会は中村町始まって以来のことで会場内は立錐の余地なく遂に臨場の警官から入口を閉鎖するのやむなきに至った、賀川氏は近代文化と宗教生活と題して三時間に亘り熱誠また熱誠、救国の大雄弁をふるへ聴衆に感激を与へ同夜九時五十分発列車で帰京したが浜通り三箇所の講演会に於て賀川豊彦氏の同志として彼の神の国運動に参加すべく決心した同志は五百四十名に達した(福島民友・昭和6年12月12日)

 成瀬氏は、賀川氏が12月10日に、相馬農蚕学校でも一般講演を行った、と記している。朝の石川製糸工場での講演が8時半と早かった訳だ。これに続いて、原町の最高学府である当時の地域のエリート中学生たちの学校で講演をこなし、その日のうちに中村でも日程がつまっている。超有名人ということで、過密なスケジュールをこなしているのがわかる。
 昭和6年当時の福島民友浪江支局は開設されたばかりで、室原の石川正義が担当していた。民政党に属する政治青年でのちに県会議員や浪江町長などを歴任する人物である。
 昭和6年10月に賀川豊彦原作の「一粒の麦」が映画化されて封切りとなり全国に一大ブームを湧き起こしていた。福島県立図書館で、賀川の「一粒の麦」は最も多くの貸し出し記録を作った、という記事が当時の新聞に載っている。一冊の本に、628回の貸し出しがあったという。千余の聴衆が集まったのがうなずける。
 浜通りでの連続伝道講演会が12月のことだから全国的ブームの渦中の有名人を一目見ようという聴衆も多かったに違いない。
 さらに翌年の新聞から拾ってみると、昭和7年4月9日福島民友に、

「神の国運動 われるやうな群衆 白河劇場を占領 賀川豊彦氏の火の様な雄弁」

 という記事がある。昭和7年には福島県中通りを伝道旅行しており、4月11日民友には大森小学校で講演した折りの写真が掲載され、同4月には掛田小学校でも神の國運動講演会が行われ300名の聴衆を集めた。

 キリスト教の社会活動

 6月20日民友論説欄には「悲惨な公娼生活」と題する救世軍社会部長植松中佐の名による論評と賀川豊彦氏の「魂の芸術 国家の存亡と国民精神」と題する論説とが掲載されるなど、しばしば紙面に登場。賀川は、足しげく東北にも通い、信徒の尊敬の的となり親しまれた。
 6月27日民友の第一面の論説欄には杉山元次郎の評論「キリスト教の二方面」が掲載されている。
 杉山は、昭和7年に社会大衆党から衆議院議員に当選し、不況下の金融機関を助けるのは、農民などの弱者救済につながらないのではないか、と国会で現代の論戦のような議論で、時の高橋是清に鋭い質問を発している。

 中村基督講演
 中村町日本キリスト教会では二十四日午後七時半より森永太一翁の特別講演会を開催するが演題は「我は罪人の首なり」で引き続き二十六日午後七時半より道旗泰誠師の「阿弥陀仏よりキリストへ」と題する講演会を開く(昭和9年7月・福島民友)

 太一氏とは、有名な森永製菓の創業者である。熱心なクリスチャンだった。登録商標になっている、あのかわいらしい森永のキャラメルやチョコレート天使のマークは創業者の信仰に由来するのだ。
 道旗泰誠師は個人伝道家で、原町にも招聘して、町内の日基、デサ、メソの三教会が合同で基督教講演会を開いた。
 ともあれ当時の新聞は(特に民友は)総じてキリスト教の活動に対しては寛容であり、大正8年から1年半にわたってキリスト教の論評が掲載されて以来、尊敬の念が払われていた。福島市に活躍の場所を移した多田牧師は、しばしば民友の紙面に登場し、クリスマス、復活について一般読者にキリスト教信仰を説いている。多田牧師が創設した福島昭和幼稚園に関する記事も頻繁に見える。当然記者の中にも、佐藤傳のような信者がいたからだろうし、当時の先覚的な人々にとってキリスト教精神は魅力的で、それは確かに「新聞」ネタになりうるニュースたりえた。
 やがて時勢は日中戦争以後の極端な軍国化によって、キリスト教排斥の時代を迎えることとなる。そのことをふまえて、ふりかえってみるとこの戦前のキリスト教ブームとは、知識人、文化人などを中心とした「読書」階級の、西洋的新文化としてのキリスト教受容だったのではないだろうか。
それゆえ本格的な伝道が農村にこそ必要との認識が賀川にも多田にもあったのであろう。 
 日本農民組合を結成した杉山元次郎と賀川豊彦の影響が、東北農民に、福島の人々に色濃いのは当然である。若き日の彼らの足しげく通ったのは、まさに草深い東北の草の民の生きる場所だった。
  

 ホーリネス教会伝道

 成瀬稿65年史、75年略史でも、また古山稿による相馬市史の記述でも、相馬地方におけるホーリネス教派に言及しているのは戦後になってからのものだが、同教団の進出はもっと古く、昭和初期の中村と原町にも、ホーリネス派の信者が誕生していた。中村には教会があったし、中村から出張伝道してきた新田牧師によって、太田村下太田出身の大工平野栄之進(昭和6年)、のちに平野氏と結婚することになるキヨ夫人(同8年)、駅前通りの魚屋の鈴木貞二らが受洗している。
 この頃の教会関係記事の中に中村ホーリネス教会の消息を示すものがある。

中村基督伝道
中村ホーリネス教会主催持別伝道会は十四日午後七時より同町向町公会堂に開催したが講師は仙台ホーリネス教会植松英雄氏(昭和8年12月15日福島民友)

 ホーリネスというのは、「聖潔」の徳目を尊ぶ一派で救世軍と同じくメソジスト教派から分派した。昭和8年に日本伝道を開始して全国に教区を設けて布教運動に乗り出した。その大きな波紋が、東北の片田舎の中村まで及び、ここから原町にも及んできたのだ。
 伊達郡、飯野、川俣では大正時代からホーリネスの教派が布教されていたが、聖霊派の熱心な祈りの一派であり新鮮な魅力であったというが、大半の信者は(日基の)壇上からの福音主義的信仰にとどまった、とされる。
 平野キヨは岩手県大船渡の生まれ。「私は17歳のときに一関で路傍伝道をしているホーリネスの牧師の説教に初めて触れて心をひかれました。働くために各所を動いていたので洗礼をさずかる機会がありませんでしたが牧師について千葉県にゆき、麻布のホーリネス教会にも通いました。証するにも、あんたズーズー弁だねと言われたりした。原町に来たのが昭和8年。野馬追祭のころ、7月に新田川で洗礼を授かりました」浸礼である。
 「原町に信徒は5~6人おりました。若い人や女性だったで嫁に行ったりて今は殆ど原町にはいません。あの頃のことですから中村から、新田牧師さんが自転車で原町まで通ってくれていました」という。
 信田沢の小林かね(81歳)もこの頃にホーリネスに触れた。長寿荘に健在。
 キヨは石川製糸工場に3年間勤め、寄宿舎に住んだ。工場ではキリスト教講演が行われたのを覚えている。昭和12年に、同じ信仰の平野栄之進と結婚。日本国内の経済は逼迫の度を強めていたたため、夫妻は新天地を求めて13年に満州に渡っている。
 ホーリネス教派は、戦中に国家の命令で日本基督教団に合同させられたが、戦後は敗戦によって呪縛が解かれたかのように、いちはやく日本基督教団から分離して行った。原町での活動は戦後の一時期、ホーリネス教会牧師夫妻と若者たちを中心に展開することになるので稿を改めて戦後編に書くこととする。

 昭和9年の東北凶作とマデン夫人の義金

 昭和6年に原町に婦人矯正会が結成され翌7年には石川組製糸工場と原町紡織工場に日曜学校分校が設置された。
 昭和9年の冷害は米の主産地東北地方に甚大な被害をもたらした。収穫のない困窮農家から娘たちが遊郭という苦海に身売りされて社会問題となったのはこの頃である。
 飲酒の害悪、人身売買、都会の不景気。そんな世相の中で農村は冷害と貧困とに見舞われていた。かつて仙台など東北に教会を建設し、大阪に移って独立して伝道活動を続けるマデン夫人は、佐藤政蔵へ手紙を書いて小為替を送っている。東北農民の窮状を知って、彼女の心は東北の信徒のもとに飛んだのだろう。パンに窮している時代には、なおさら精神の糧が必要だった。

宗教的人類愛が生んだ美挙
大阪のマデン夫人から佐藤政蔵県議へ義金
最近兎もすれば荒み勝ちな国際問題の話題を生む際、荒寥たる凶作の原町に宗教的人類愛がきざんだ美はしい花を一ツ
▽一▽
廿一日開会の県会議事堂民政派議員控室の相馬郡選出佐藤政蔵氏宛英文のレターと共に十円の小為替が届けられたのは大阪市北区天満橋北詰の米人宣教師マデン夫人で、左記の手紙によっても示されるやうに堅く結ばれた友情と深い信頼とが崇高な宗教心の上にあらはれてゐて純朴な佐藤さんをただ感激にむせばしめてゐた
そもそもマデン氏夫妻と佐藤さんとの交はりは明治末期から始まる、同夫妻は明治二十八年異国の土になる決意を堅めて来朝した、そして仙台市に教会を設立して伝道に当たっていた同四十三年ごろ、一兵士であった佐藤さんが暇あるごとに教会の扉を叩いては熱心に説教を傾聴してキリスト教への信仰が深まるにつけ、親交も深まり大正九年同夫妻が大阪に旅立った現在に至るその間も四季を通じて音信を絶へたことはなかったもので、すでに日本の土となることを希ってゐる程の夫妻は東北の凶作に悩む人々の事も決して異国人の出来事とは考へられないだらうし、夫君が商業学校に教鞭をとる薄給の内からさいた十円も正に貧者の一燈程の輝きをもつもので、どう云ふ方面に使用されますかと問へば佐藤さんは感激しつつ
教会関係のもの故帰郷の際教会の人々と相談してマデン氏の意志を生かす様にするつもりだと語った(以下手紙全文)

親愛なる佐藤様
新聞は東地地方の哀れな飢餓を報導して居ります。私共は非常に悲しんでます。憂ふべき時に対して私共の友達のために奮起して助けることを神様に祈らねばなりません。然しあなたが御存知の通り只今私達はそう沢山生活上救ふことが出来ませんが少しくは助けることが出来ます何うぞあなたが最も必要と思ひなさることに十円を用ひて下さいささやかな教会でもお手紙に答へるために仙台宛にいくらか送りませう。一週間前に須藤さんが大阪におらるるお嬢さんに逢へに来られました。彼女は話しました、あなたの御手紙にあるように救はねばならぬ多くの人々の事を私に話しました。毎日私は何にか致したいと考へてましたが、そして私のお金のほんの少しを送ることが出来ました佐藤さんが救済せねばならぬ人々の事をよく知って居らるると彼女が言ってましたからクリスチャンの方々にも何うぞよろしく。主人はしばらくアメリカに居ります。健康のためと、伝道と、子供達に逢ふために行く必要があったのでした。すぐ帰って参ります、それで私からお手紙を差し上げた次第です。

 佐藤政蔵の娘で大正二年生まれの片野桃子は、この記事とマデン婦人の手紙について「私が物心ついてからのうろ覚えのことなども真相もよく分かり、父がどんな経緯で入信したかもよく分かりました。私達兄妹もずっと日曜学校に行くのが当然と思って、千葉先生、多田先生、野口先生と….昭和六年頃までは教会とつながって居りましたが牧師不在の様になり…結婚、戦争と、つい教会から離れてしまいましたが、それまでは我が家の座敷でよく千葉先生や仙台の須藤先生を囲んで集会をして居りました。父の信仰は型よりも心(魂)であった様で、仕事がらといふよりはお酒も好きでよく頂きましたが、機嫌のよい酒で、教会のきまりはきびしすぎた様でざんげを繰り返して居りましたが、決して人を疑はず、恨まず、そしらず、差別することなく一生を終りました。子供たちもしらずしらずその精神で育てられ、貧乏しても気にせず、空の鳥を見よ、野の花を見よ、明日をおもいわずらうな、の生き方で一生を終わりそうです。この精神を子や孫に伝えることは出来ないかも知れません、世の中があまりにも物質主義になり、宗教でも科学でも止められない様な無気力を感じます。
 議員時代にマデン夫人と神父さんとお子さまと揃った写真もうちの写真箱にあり、よく見た覚えがあります。」
 という回想を筆者に寄せている。

 ブラジル同胞からの義金  昭和10年には、ブラジルに移民した原町出身の渡辺孝(福島県人会創立者・初代会長)、初期教会メンバーだった菅山鷲造らが発起人となって在伯同胞が拠金しあい、凶作に見舞われた東北の故郷福島県に20万円の義捐金を送付している。菅山は戦後にもたびたび日本に救援活動を行ったほか、サンパウロに療養所建設のための土地と私財を寄付するなど社会厚生に尽くした。

 在米二世同胞の訪問
 田村文子女史の訪日についての記事
 
 昭和10年の福島民報には、原町の話題として次のような記事も載っている。
 
 在米日本人の第二世学生達五十人が母国見学団を組織して渡日廿八日横浜に上陸したとあるが、その見学団の幹事奥野正二郎氏(鳥取県人)の夫人は原町出身の(阿部源蔵氏令姪旧姓田村)文子さんなのであるが、ここ一週間内に生みの母田村ワキ刀自をもインタビューされるとのことで刀自を初め一族の喜びは只事でない
 文子さんは米国は加州ロスアンゼルスの郊外ガーデナ日本人学園の先生をしていられる二十徹夫君も団員として来ている、十四五年振りに相見る刀自と夫人のシーンは蓋し涙なしには見過ごせない悲喜劇であらう?(「原町短波」昭和10年7月1日民報)
 原町本町阿部市助氏の令姪田村文子さんは大正十一年渡米鳥取県人奥野正二郎氏と婚姻、今は徹夫(十才)さんという一粒種の可愛い坊ちゃんを儲けているが、六月下旬十四年ぶりで親子三人祖国見学団員として帰朝し、生みのお母さんをその実家に訪れたのは遂ここ一週間ばかり前の話
 奥野夫妻は加州ロスアンゼルス市近郊ガーデナといふ所の日本語学園の教師として米国生まれの第二世達へ日本語を以って教育する重要なる任務に就いている、氏等夫妻の十四年ぶりに帰朝その祖国日本の見学より受くる影響は蓋し氏の今後の教育施設の上に少なからぬ覚醒を与えることであらう
 学園の夏休みを利用しての帰朝の旅だったので奥野氏夫妻は席温まる暇もなき旅をつづけお母さんの膝下にも僅かに四、五日の滞在で、けふ(十六日)横浜埠頭を離れる米国ダラー汽船大統領クーリッジ号で祖国見学団四十名と共に帰米の途に就いた筈、切に健闘を祈るものである(「原町短波」昭和10年8月18日)

 明治の初期キリスト教徒の田村一族の分枝がこうして元気にアメリカで息づいていたことを、郷里の人々は喜んで迎えたことであろう。

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