1の9 風呂
 私が生まれてから高校二年生の一学期まで住んでいた大甕村北原の家には大きな五右衛門風呂が煉瓦の壁で仕切られた裏の炊事場方に竈の焚口あり、かなり太い薪までくべることが出来た。一年中納屋にごんの(枯れた松葉)、萩の枝のような柴をいつも切らさないように貯えていた。家の北の方には防風用として檜の葉、杉,李といった大きな木がありいつも枯れ枝や,枯葉が落ちていて、なるべく納屋の薪を節約するよう心掛けた。小学生の時から私が風呂焚き当番だった。
  父が原町機関区の機関士だったので、父が非番の時は決まって機関区にある大きなプールのような、蒸気を沸かした風呂に入りに行った。又、父が原町駅に帰ってくる時間をねらって入りに行った。
  昭和20年8月9日,10日,11日と3日間米軍の艦載機グラマンによる爆撃があり機関区にあった50両の蒸気機関車が壊滅した。当然隣接していた風呂も破壊された。しばらくして復旧したがジーゼルカーから電車の時代が来て機関車も風呂も消えた。
  父が定年退職後のころになると兄弟が出てゆき、一時期両親と病気がちな長姉と私の四人の時があり、大きな五右衛門風呂ともゆかず、原町の銭湯に行くようになった。
  所沢高校に転校して間もなくは久米の大家さん(平塚)の家の風呂を平塚さんの家族全員が済んでから入らせてもらった。ぬるくてお湯の量がすくなかった。平塚さんの家から町の銭湯まではかなりのきょりがあったので行くことはなかった。町はずれの横山瓦店工場の2階のハーモニカ長屋に越してからは1日おきぐらいに銭湯にいった。当時所沢には銭湯が二軒あり、私は賑やかな歌舞伎町にちょいちょい出かけた。そこは女郎屋街で物凄く活気があり賑やかだった。その辺りには米兵は少なかった。私は学校の授業が終ったのち色々なアルバイトをやりアパートに帰ってから銭湯に行くわけだがいつも10時過ぎになった。歌舞伎町の銭湯に行くにはクラスの1番の梅林君の家の前を行き来したがいつも窓際の電気がついていて勉強をしていたのが何とも羨ましい限りだった。
米兵たちの遊び場は主に所沢駅前のキャバレー街で夜は街娼、パンパンで賑やかだった。MPと日本の警官が一緒にジープでパトロールしていた。よく米兵同士のけんかが見られた。厚木、立川,狭山、入間川一帯に約7万人の商売している女性がいたという。将校になるとオンリーと呼ばれる妾を一軒家を借りて囲っていた。とし子姉の隣がオンリーの家で甥の由紀夫はハーフの子供と遊んでいたが気性の荒い子で大変だったようだ。米兵の多くは空軍関係者が多く当時1ドル360円時代だったので米兵は羽ぶりが良かった。
その後、所沢市内を数軒引っ越したが相変わらず銭湯通いだったが、ビクターオートに勤めた時には本藤さんに下宿して、風呂があった。下宿人が3人とどういう訳か警察官が入りに来ていた。その後戦争未亡人の本藤たきさんと娘がはいって。従って私が5番目に入った。
 清瀬に引っ越してからも銭湯通いであったが、近くの結核療養所の患者さんたちが入浴に来ており,肺の手術の跡が生々しかった。
  移住前、ギムラン養鶏所に研修の為に3ケ月お世話になったが、そこにはシャワ―があったが、なかなかなじめなかった。
  移民船「あふりか丸」の中は真水使用が制限されていたが風呂はあることはあった。シャワーが主となっていた。
  移住したロンドリーナではドラム缶を三分の二に切って露天風呂。ジョン ラマーリョでパイナップル栽培をしていた時もドラム缶,グアラミリでピーマンを栽培していた時もドラム缶だった。
  農業時代はドラム缶か小川に行って浴びてきた。
  クリチーバに移ってからは100%シャワーの生活だった。

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