相馬地方のキリシタン弾圧史料

 今野美寿々著「相馬藩政史」に、次のような記述がある。

公儀御法度掲示所
各大小名ハ領内ニ於ケル執政ノ権ヲ有スト雖大綱ハ総テ徳川幕府ノ定ムル処ニ拠リタリ大小名ハ唯其細部ニヨリ政事ヲ行ヘタルニ過ス其公儀ヨリノ法度ハ駅駅及津方若クハ在村ノ枢要ノ場所ニ公示所ヲ設ケ公衆ニ示シタリ其個所ハ公儀ニ届置キ私ニ之レヲ変更スルコトヲ得サルヲ法トス本藩領内ニ於ケル個所左ノ四十八ケ所トシ皆公儀ノ承認ヲ得タリ
一、御制札個所
 宇 多 郡
中村町ノ内 大町 田町 岩井町 笹町 玉野 山上村ノ内 須萱 金谷原
 行 方 郡
鹿島 原町 小高 二枚橋 草野 飯樋 馬場 臼石 八木沢 上栃久保 関澤 栃久保 
 標 葉 郡
浪江 長塚 新山 熊川 津島 野川 室原 塩浸(津島村ノ内)

一 津方後制札個所
 宇 多 郡 
原釜 松川 蒲庭 大浜(磯部村ノ内)
  行 方 郡
烏埼 北泉 萱浜 小浜 塚原 村上 浦尻南海老
 標 葉 郡
棚塩 請戸 中浜 夫澤 小良ケ浜
一 御制札掲示条目
   條條

     定
一、切支丹宗門者累年御禁制たり自然不審成者有之ば申し出づべし御褒美として
  伴天連の訴人   銀五百枚
  伊類まんの訴人  同三百枚
  立者の訴人    同 断
  同宿並宗門の訴人 同百枚
右之通可下之縦同宿宗門之内よりと雖訴人に出る品により銀五百枚可被下之隠置者他所より現はるるに於ては其所之名主並五人組同類共に可被処厳科者也
天和二年五月 日             奉行
「相馬藩政史」 上巻632ページ

異文
 馬場(現原町市)の大公儀御制札を読み下したものが、「行方文化」第4号に掲載されている。

     定
一、切支丹宗門は累年御禁制たり。不審成る者之有らば申し出づべし。
御褒美として
 ばてれん    訴人 銀五百枚
 いるまん    訴人 同三百枚
 立かへりもの  訴人 同断(同様)
 同宿衆宗門   訴人 同百枚
右之通下さるべくたとへ同宿宗門之内たりとも訴え出るべし。□により□□□かくし置他所よりあらはるるにおいてはその所の名主並五人組迄厳科に処せらる可き也。仍て下知件の如し。
年号月日奉行
文中天和二年(一六八二)は徳川綱吉、相馬昌胤の時代で幕府より忠孝等諸法度、キリシタン禁制、毒薬贋金等禁制、宿駅諸法度、火事場禁制について高札立替之令が出ており、藩においても奉行によってこの高札が建てられた。

大公儀制札


一、切支丹宗門は累年御禁制たり。不審成る者之有らば申し出し。
御褒美として
ばてれん     訴人 銀五百枚
いるまん     訴人 同三百枚
立かへりもの   訴人 同断(同様)
同宿衆宗門     訴人 同 百枚
右之通下さるべく□(たとへ)同宿宗門之内たりとも訴え出るべし。□により□□□かくし置他所よりあらはるるにおいてはその所の名主並五人組迄厳科に処せらる可き也。依って下知件の如し。
年号月日       奉行

明和七年(一七七〇)四月  奉行
右之者領内輩堅可相守者也。
干時文政四已年(一八二一)

当時の世相を物語る資料として貴重なものと思い読みくだしてみたが、難解な毛筆文故不備な点もあり判読願いたい。文中天和二年(一六八二)は徳川綱吉、相馬昌胤の時代で幕府より忠孝等諸法度、キリシタン禁制、毒薬贋金等禁制、宿駅諸法度、火事場禁制について高札立替之令が出ており、藩においても奉行によってこの高札が建てられこれを仰ぎみ見る住民の顔色がうかがわれるような気がする。次の明和七年(一七七〇)は徳川家治、相馬恕胤の時代で全国的に農民一撲:つちこわしがひん発騒然とした時期で、幕府は四月に徒党強訴逃散訴人の高札を立て、領主の出兵鎮圧を令じている。(行方文化第四号・高橋義一)

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