鈴木安蔵の周辺

鈴木良雄 父親は鈴木良雄というプロテスタントのクリスチャンだった。雑貨商を営み、小高銀行の支配人代理を務めた経済人であるとともに、俳句の盛んな小高にあって代表的文化人であり、正岡子規門下の俳人。はじめ愚堂、のちに余生と号した。惜しまれて27歳のとき肺結核で死去。

鈴木良雄夫妻の教会記録

鈴木安蔵 安蔵もこの父と母、姉の信仰するキリスト教の思想下で自己を育み、人道的な視点から法学者への道を歩んだ。若き日の安蔵少年は小高教会に通い聖書を学んだ。相馬中学の弁論部で活躍し第一回県下弁論大会で優勝。また当時は校内で黙認されていたリンチの蛮風を追放しようと同盟休校を指揮。二高社研ではマルキストとなり、大正デモクラシーの思想的バックボーンを作ったといわれるクリスチャン学者吉野作造博士の学風を嗣いで、日本憲法学の始祖となった。戦後の民主的憲法草案の鈴木試案を書いたことでも知られる。
(「鈴木憲法学・生涯と展開」より)

無牧時代
(大正十年)(一九二一年)~昭和初期
阿曾沼幸之助牧師
杉山牧師転出の後仙台市東六番丁教会から阿曾沼幸之助牧師が着任した。同時に宮城女学校聖書専攻科学生 俣マキ、鈴木瑛子両姉がこれを助けることになり毎週出張して日曜学校その他の働きを分担し、クリスマス等は来会者二百五十名の盛会であった。然し阿曾沼牧師は健廉が勝れず充分な伝道活動が出来なかったが、病苦をおして各集会を守り、会堂の建物が不安定で町民からの苦情もあったので大改築を実施し、伝道局の援助も得て、平屋建の会堂に改造し、牧師舘を附設することにした。
大正十年(一九二一年)三月には中村教会で聯合礼拝と一日修養会があり当教会からも七名出席した。同年八月には原町教会の林ふみ婦人伝道師も来援し、村上海岸で原町教会との合同親睦会を催し二十数名の参加者があった。この当時の日曜学校は毎日曜六、七〇名の学童が出席し、藤田保恵姉(藤田医師夫人)、木幡茂男氏、林ふみ伝道婦が指導した。
同年九月頃から阿曾沼牧師の病状悪化し同年一月遂に永眠され、ペンキの香も新しい会堂で、土田熊治牧師司式の許に葬儀が行なわれた。
翌大正十一年(一九二二年)四月新任牧師着任まで結城国義牧師(亘理)、土田熊治牧師(仙台)、ノッス宣教師(会津若松)、秋保牧師(仙台)、田村剛教授(東北学院)等の応援を得て集会を続けた。
大正十一年四月成瀬高牧師が一時定住したが、林ふみ婦人伝道師と交替し、林女史が小高に定住、成瀬牧師毎週出張し、浪江にも出張伝道を行った。

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