歴史から消えたふたりの伝道者
  初期東北学院と原町出身の神学生
 渡辺好の場合 実はこの二名、渡辺好と大浦定雄は、共に福島県原町の出身であった。前にもしばしば引用した『東北教会時報』は逐一、二人の動向を伝えている。一四号(明治三十五年五月三十一日)は仙台教会記事として、両名が原町講義所から転入したことを報じるし、一八号(同年九月三十日)は渡辺が石巻教会で夏期伝道に当たったが、「何故にや求道者極めて少く今回来石の渡辺氏杯も働き甲斐なしとこぽされた」と記す。二〇号(同年十二月五日)では、仙台の東の郊外、福田町において「農事の小閑を期して演説幻燈会」が開かれ、渡辺と前記の本郷幸次郎の両名が来援し、百七十名余りの聴衆を集めたと報じられている。渡辺は福田町のほかにも、明治三十六年春からは、それまで市内の花京院で細々と続けられていた日曜学校を担当し、「之の小さき日曜学校こそ芥種子ならんと大に興味を持ち全力を注ぎ大に改革を成さんと意気込居れり」とある。明治三十六年の夏休みには、渡辺は再度石巻の夏期伝道に派遣され、得意の幻燈を用いて人々の耳目を集めた様子が報じられている(二九号、九月十九日)。翌三十七年の夏、渡辺は山形で夏の特別伝道に従事したと見えて一四〇号(九月二十六日)は渡辺の筆になる山形教況を掲載し、柿沼敬治伝道師のもとに日曜朝には三十名ほどの参会者のあることなどが記されている。
 こうして神学生時代を積極的な伝道実践に過ごした渡辺は、前述のように明治三十八年三月には大浦と共にめでたく卒業、四月十八日に仙台教会で開かれた定期宮城中会の准允試験にも合格、教師試補として「長町増田二ケ所の伝道を受持」つこととなった(四九号、五月五日)。着任の翌月(五月二十五日)、渡辺は長町と増田の教勢を報ずる。長町は「近時伝道者の交換頻繁なりし為か例の如く不振にて朝礼拝式の出席僅かに三人に過ぎず候。日曜学校は割合に盛大にて前日曜日などは実に五十三名の生徒出席致し候、小生赴任の当時は男生徒至って少数にて候ひしが小生は日曜以外の平日にも子供等を集めて学校学科の復習など為せしに図らずも日曜学校盛大の原動となり目下男生徒も女生徒と同数位いに相成り候…」(五〇号、六月十日)。子供好きでこまめな渡辺の性格がうかがわれるようである。一方、増田にはかつて「押川ホーイ諸師より受洗せる人々」が信者帳簿の上では三十一名もいることになっているのに、集会出席者は家主夫婦と某医師夫人程度にすぎない。しかし、その増田も漸次教勢を取り戻し、翌明治三十九年二月十五日の五八号では次のように近況が報じられる。「昨年五月渡辺好氏赴任の当時は唯日曜学校の設あるのみにして信者の礼拝絶えてなく至りて衰微の有り様なりしが爾来同氏の熱心忠実なる伝道によりて追々盛況に赴き新に四人受洗者を出せり、毎日曜の礼拝者は何れも歓喜に充ち満ちて出席するに至り日曜学校の生徒数も今や倍数に増加し毎会六十人を下らざるは以て隆盛の一斑を知るに足る、蓋当地小学校教員五名の熱心誠実なる信者あると一は又渡辺氏の伝道其の宜しきを得たるに原因せずんばあらず」。若き伝道者渡辺好の前途はまさに望みに溢れたものと見えた。
 しかるに、翌明治四十年八月十五日付けの七五号は、増田教勢通信として以下のような驚くべき数行を載せる。「当地は前任伝道者の失敗の為に大に挫折し又或事情の為に教育家は勿論其の他の人々に対する伝道大に困難を来し日曜学校も大に衰微し目下三十名内外なり、集会は毎日曜の集り七月中は平均十名婦人会は六名なり」。紙面の性格上、事柄の内容については推察のすべさえもない。いったい何があったのだろうか。明治三十五年四月の神学部入学から満三年の準備期間にも及ばない、僅か一年少々の伝道活動であった。
 明治三十九年十一月十五日刊の六六号は、米国プリンストン留学中の梶原長八郎からの来信として、「目下矢野、萩原、溝口、渡部の諸氏当校に在学」と記す。字は違うが、明治四十年の第二十四回宮城中会記録の「伝道者宿所」の項にも、渡部好として「在米国」と記されているので、渡辺本人であることは疑いない。中会記録は明治四十五年の第二十九回記録に、依然として「在米国」と記入するのを最後に、渡辺についての言及は消える。長い留学の後に渡辺がどのような伝道生活を送ったのかは、今のところつまびらかにする方法はない。少なくとも、東北伝道への貢献という本章の記述の趣旨から言うならば、渡辺は失われてしまったのである。神学部教授会が、渡辺への奨学金打ち切りを決議したこととの奇妙な暗合とさえも言えなくはないだろう。伝道者への道はいつでも狭く険しいのである。
 大浦定雄の場合 渡辺の級友大浦定雄の歩んだ道も同様に厳しかった。『東北教会時報』一二号(明治三十五年三月三十一日)は、神学校入学以前の大浦が、福島県相馬郡中部の冬期伝道に渡辺と共に参加し、談話によって「大に求道心を励ます」様子を伝える。神学校の最後の夏(明治三十七年)を大浦は若松で夏期伝道に従事して過ごす(三九号、三十七年八月十七日)。翌号(九月二十六日)は大浦が七月二十六日から九月五日まで、多田晋伝道師を助けて伝道した報告文を掲載する。四四号(同年十二月二十日)に大浦は「クリスマス執行に就て」と題して寄稿し、「現今我邦に於て一般に行はるるクリスマスの式典は西洋諸国殊に米国の慣例を其侭採用したるに過されば風俗習慣を異にせる我邦に於ては多少不都合を感ずることなきにあらず」とし、「成べく我邦の風に適するやう改良を計るべきは当然のことなりと信ず」と主張する。英語が不得手だった大浦らしいと言っては言い過ぎだろうか。
 神学生時代は、主として仙台市内の北鍛冶町講義所で伝道を手伝っていた大浦は(五〇号、明治三十八年六月十日)、前述のように、渡辺と共に明治三十八年の宮城中会で准允を受け、開拓伝道に従事するため山形県楯岡に赴任することになる。一年半後の明治四十年、大浦は次のような教勢報告を「東北教会時報」に書き送る。「当地方の教勢は去三十八年五月自分が赴任して伝道を開始して以来未だ著しき進歩を見るに至らざるも従来基督教に対し悪感情を抱き疑惧の念を有する風ありし地方の人心も時勢の推移と共に近来大に融和しいよいよ研究の念を起せる者を生ずるに至れり、向後順境にて進まば近き将来に於いて多少の収穫を得るに至らんと思はる」(七五号、八月十五日)。
 それからも大浦の忍耐に満ちた戦いが続く。明治四十年十一月には、講義所をそれまでの裏通りから表通りに移すことに成功し、それを機会に三日連続の伝道集会を挙行、六、七十名の参会者を得ている(七九号、明治四十年十二月十五日)。「大浦兄此所に駐屯せらるる事将に五星霜に垂たり然かも兄の熱心なる勤勉をしても教勢不振の叫高し以て同地の苦戦地たるを知るべし」と翌年の「東北教会時報」八八号は伝える(明治四十一年九月二十一日)。半年後の九七号(明治四十二年六月十五日)によれば、「両羽教役者」の会合で次のようなユーモラスな報告が大浦からなされている。「楯岡信徒数は、少数なれども、町民の気受次第によろしく、伝道者赴任の当時は、伝道者を指して『ヤソの奴』と呼びしもの、次第に「ヤソの人』と呼び、目下は『ヤソの先生』と呼ぶに至れり」と。大浦はなおも忍耐強く伝道を続ける。明治四十三年五月には、山形市在任のジーグ宣教師および著名な説教者中村獅雄を招いて特別集会を催し、「近来稀なる集会なりき」と報じる(一一〇号、七月十五日)。
 明治四十五年から大浦は宮城県登米に転ずる。『東北教会時報』一四五号(大正二年六月十五日)はこう伝える、 「石森町に五六の信徒あり、爾来有志の宅に、不定日の集りを開き来りしが、大浦牧師の尽力に依り、昨四十五年二月講義所を常設して以来、頓に面目を展開し、毎月第一第三の火曜日を以て集り、児童のために午后五時、年長者のために午后七時、一日二度の開演を為しつつありしに児童の集りは二十人乃至三十人位、年長者は七八人、数少しと雖健全なる分子にして、将来信徒生涯を送るべきは勿論、指導勧誘に努むる人々なり」。
 大浦は登米伝道教会の伝道師として着任したわけであるが、登米の伝道はすでに明治十九年に遡り、石森もそれより遅れること三年、共に伝道の歴史の長い割りには教勢が振るわなかったのは事実である。ドイツ改革派教会の在日宣教師団も、かなりの伝道資金を投入していた。たとえば、一九〇七年(明治四十一)年度の会計報告では、登米の牧師給年額三三六円のうち三二六円が伝道局の負担となっており、石森にも年間七〇円の伝道資金が支出されている。(「改革派教会全国総会議事録」一九〇八年五月十九日)。ついでに言えば、同じ会計年度に、楯岡伝道には年間三七二円が支出され、牧師給三一二円と家賃の六○円は全額伝道局の負担と報告されている。大浦が赴任した登米伝道教会には、明治四十五年度に四三二円が伝道局から支出され、信徒の献金年間総額一九円余り以外のすべての経費がそれによって賄われている(「宮城中会記録」大正二年)。
 このような在日宣教師団の側の力添えもあり、大浦の熱心な働きもあって、「教勢稍沈滞の傾ありし当教会も……昨年夏以来漸次活気を呈し来たるは喜ぶべき現象にて毎日曜日礼拝、夜の伝道説教会、水曜日祈祷会共に平均十名内外の出席あり」、会堂内部の大修繕や牧師館の造築も「会員の寄付とミッションよりの補助とにより」完成を見た(「東北教会時報」一五七号、大正三年六月二十五日)。同年八月十八日、石森教会で開かれた「仙北教役員会」で、大浦は「忍耐の宗教」と題して講演を試みているが、いかにも大浦に似つかわしい(同上一六〇号、九月十五日)。
 大浦は大正五年二月、登米を去って今度は宮城県南の角田に転ずる。大浦の着任の辞によれば、久しく無牧であった角田教会からの一日も早く赴任するようにとの懇請に応えたものであった。大正三年の「中会記録」によれば、角田の教会員総数は二六名、現在陪餐会員一二名、礼拝出席平均一一名、経費の八割が外国伝道局の負担であった。大浦着任当時も事情が大きく変わっていなかったことは、「中会記録」、「改革派教会全国総会議事録」などからも知られるところである。ところで、赴任早々の大浦は角田町の大火で類焼の憂き目にあう。「東北教会時報」一八一号(大正五年六月十五日)大浦の私信を掲載する。「私は不思議ある御摂理にて回顧すれば第一回の任地楯岡にては父を失ひ、第二回の任地なる登米にては二人の子供を失ひ、第三回の任地なる当地にては家財を失ひ、斯くして神は任地毎に私に新らしき経験を与へ給うて私をして円満なる者あたらしめんとなし給ふ御恵みを感謝いたし居り申候」。
 このような思いもかけない災厄にもめげず、大浦は例の忍耐力をもって黙々と伝道に当たる。大正六年十二月十五日刊の「東北教会時報」一九九号は報ずる。「附記 角田町の為め幾多の犠牲を払われたる同労諸氏の驚き祈りは今や神に聞かれつつあり、現今の教勢は大浦主任錦織婦人伝道者を通して着々堅実なる進歩を遂ぐ。集会には老壮中の諸階級を網羅し、横山委員は会堂新築の為め渾身の努力を献じて尽さる。願くは主よ神殿の建設者一同の上に必要なる心と力と豊かに賜ひて、聖栄の全き器たらしめ給へ」。
 外国伝道局が依然として角田に支援を続けたことは、大正七年の「宮城中会記録」に記載された年間七四六円の「ミッション補助」からも明らかである。しかるに、大正九年の中会記録はまったく唐突に、庶務報告として「大正八年六月二十日大浦定雄氏より伝道者辞職願出づ」と記載する。願いは協力委員会の決議によって許可されたとも報じられている。事情はまったく不詳である。僅かに推測の材料となるのは、大正十年八月十五日刊『東北教会時報』二四一号の「宮城県南訪問記」である。編集者のひとり土田熊治はこう報告する。

 七月九日角田教会に至り午後主任者泉田氏と共に横山氏を訪問す横山氏は森善太郎広岡玄三両氏と共に委員として教会のために尽力せられ目下幼稚園を開設せんとして着々準備中なり、八時説教会に於て説教す、会衆四十名青年求道者多数を占む、角田は前任者の失敗後教会に対する社会の信用全く地に墜ち一年無牧集会の状態なりしが泉田重之氏来任以来熱心なる働きにより教勢を挽回して数名の新会員と更に多数の有望なる求道者を与えられしのみならず教育家側上中流階級に於いても教会に対して好感をもつに至れるは感謝すべし。
 
 伝道者としての大浦定雄の名前が挙げられるのはこれが最後である。重ねて、いったい何があったのかはまったく不詳のままである。これ以上の詮索も不要かと思われる。

(東北学院文書)

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