賀川豊彦と神の國運動
昭和3年の原町教会の庭で
昭和4年から賀川豊彦の「神の國運動」
がスタートし全国に熱狂的な賀川によるキリスト教ブームを巻き起こした。当時の状況をみるのに当時の新聞から拾ってみると昭和4年には川俣で神の国運動が展開されている。昭和6年には福島県浜通り地方での大伝道集会が行われた。原町での講演は浪江町浪江座での2時半からの集会に続いて12月9日夜原町公会堂で行われ、中野屋に一泊。続いて翌朝8時半からは駅前中野屋旅館とはすぐ隣接の石川製糸工場で女工らを対象に、同日は相馬農蚕学校で、また中村町でも小学校教員を相手に講演した。
浜通りの精神界に一大衝動を起す
賀川豊彦氏の講演
同志の決心者だけで五百四十名
神の国運動として浜通り巡演中の賀川豊彦氏の浪江町に於ける会は九日午後二時半より浪江座に於て開会した聴衆の多くは知織階級の男女のみで浪江には初めての賀川氏の講演を聴かんものと定刻前より続々と詰めかけ定刻には七百の会員券が無くなるの盛況、午後一時の汽車が来賓の賀川氏は浪江キリスト教会の人々の出迎へを受け医師大井三蔵氏邸に少憩、定刻浪江キリスト教会蓬田牧師の開辞に次ぎ平町日本キリスト教会中村月城氏の「神の国建設」について賀川氏が病苦をおし決死的の奮闘を続けて居らるる事精を訴へ聴衆を感激せしめ蓬田牧師の祈祷の言葉の後に賀川氏が壇上に立ち「地方文化の精神的基礎」と題して平易にしかも愛にみてる言葉を以て土の文化を高唱し或は二宮尊徳の例をひき隣邦支那の悲惨な国情を説き文化の基礎は「土を愛する」事によってのみ築かれ土をいやしむ事は亡国の始まりであると共に人類の滅亡にいたらしむるものと説きその精神的基礎を「愛」に求め土を愛すると共に隣人を愛せ、社会の各人が隣人愛を以てむすばれる時共同の繋栄は始めて来り平和は来り、人類共栄の実がむすばれると結んで二時間半の講演を終り満場の聴衆をしてやはらかき慈愛のうちに多大なる感銘を与へて五時盛会裡に閉会したが終るや直に相馬郡原町に向へ同町公会堂に於て講演会を開催したが会衆は一千名に達し多大の感動を与へて午後時時半開会同夜は原町中野屋に一泊十日は午前八時半より石川製糸工場に一時より相馬中学校並に中村町付近小学校教員の為めに講演をなしこれまた大センセイションをまきおこしたが同夜新開座に於て開催した講演会は中村町始まって以来のことで会場内は立錐の余地なく遂に臨場の警官から入口を閉鎖するのやむなきに至った、賀川氏ぱ近代文化と宗教生活と題して三時間に亘り熱誠また熱誠、救国の大雄弁をふるへ聴衆に感激を与へ同夜九時五十分発列車で帰京したが浜通り三箇所の講演会に於て賀川豊彦氏の同志として彼の神の国運動に参加すべく決心した同志は五百四十名に達した(福島民友・昭和6年12月12日)
成瀬氏は、賀川氏が12月10日に、相馬農蚕学校でも一般講演を行った、と記している。朝の石川製糸工場での講演が8時半と早かった訳だ。これに続いて、原町の最高学府である当時の地域のエリート中学生たちの学校で講演をこなし、その日のうちに中村でも日程がつまっている。超有名人ということで、過密なスケジュールをこなしているのがわかる。
昭和6年当時の福島民友浪江支局は開設されたばかりで、室原の石川正義が担当していた。民政党に属する政治青年でのちに県会議員や浪江町長などを歴任する人物である。
昭和6年10月に賀川豊彦原作の「一粒の麦」が映画化されて封切りとなり全国に一大ブームを湧き起こしていた。福島県立図書館で、賀川の「一粒の麦」は最も多くの貸し出し記録を作った、という記事が当時の新聞に載っている。一冊の本に、628回の貸し出しがあったという。千余の聴衆が集まったのがうなずける。
浜通りでの連続伝道講演会が12月のことだから全国的ブームの渦中の有名人を一目見ようという聴衆も多かったに違いない。
さらに翌年の新聞から拾ってみると、昭和7年4月9日福島民友に、
「神の国運動 われるやうな群衆 白河劇場を占領 賀川豊彦氏の火の様な雄弁」
という記事がある。昭和7年には福島県中通りを伝道旅行しており、4月11日民友には大森小学校で講演した折りの写真が掲載され、同4月には掛田小学校でも神の國運動講演会が行われ300名の聴衆を集めた。
キリスト教の社会活動
6月20日民友論説欄には「悲惨な公娼生活」と題する救世軍社会部長植松中佐の名による論評と賀川豊彦氏の「魂の芸術 国家の存亡と国民精神」と題する論説とが掲載されるなど、しばしば紙面に登場。賀川は、足しげく東北にも通い、信徒の尊敬の的となり親しまれた。
6月27日民友の第一面の論説欄には杉山元次郎の評論「キリスト教の二方面」が掲載されている。
杉山は、昭和7年に社会大衆党から衆議院議員に当選し、不況下の金融機関を助けるのは、農民などの弱者救済につながらないのではないか、と国会で現代の論戦のような議論で、時の高橋是清に鋭い質問を発している。
中村基督講演
中村町日本キリスト教会では二十四日午後七時半より森永太一翁の特別講演会を開催するが演題は「我は罪人の首なり」で引き続き二十六日午後七時半より道旗泰誠師の「阿弥陀仏よりキリストへ」と題する講演会を開く(昭和9年7月・福島民友)
太一氏とは、有名な森永製菓の創業者である。熱心なクリスチャンだった。登録商標になっている、あのかわいらしい森永のキャラメルやチョコレート天使のマークは創業者の信仰に由来するのだ。
道旗泰誠師は個人伝道家で、原町にも招聘して、町内の日基、デサ、メソの三教会が合同で基督教講演会を開いた。
ともあれ当時の新聞は(特に民友は)総じてキリスト教の活動に対しては寛容であり、大正8年から1年半にわたってキリスト教の論評が掲載されて以来、尊敬の念が払われていた。福島市に活躍の場所を移した多田牧師は、しばしば民友の紙面に登場し、クリスマス、復活について一般読者にキリスト教信仰を説いている。多田牧師が創設した福島昭和幼稚園に関する記事も頻繁に見える。当然記者の中にも、佐藤傳のような信者がいたからだろうし、当時の先覚的な人々にとってキリスト教精神は魅力的で、それれは確かに「新聞」ネタになりうるニュースたりえた。
やがて時勢は日中戦争以後の極端な軍国化によって、キリスト教排斥の時代を迎えることとなる。そのことをふまえて、ふりかえってみるとこの戦前のキリスト教ブームとは、知識人、文化人などを中心とした「読書」階級の、西洋的新文化としてのキリスト教受容だったのではないだろうか。
それゆえ本格的な伝道が農村にこそ必要との認識が賀川にも多田にもあったのであろう。
日本農民組合を結成した杉山元次郎と賀川豊彦の影響が、東北農民に、福島の人々に色濃いのは当然である。若き日の彼らの足しげく通ったのは、まさに草深い東北の草の民の生きる場所だった。
ホーリネス教会伝道
成瀬稿65年史、75年略史でも、また古山稿による相馬市史の記述でも、相馬地方におけるホーリネス教派に言及しているのは戦後になってからのものだが、同教団の進出はもっと古く、昭和初期の中村と原町にも、ホーリネス派の信者が誕生していた。中村には教会があったし、中村から出張伝道してきた新田牧師によって、太田村下太田出身の大工平野栄之進(昭和6年)、のちに平野氏と結婚することになるハルエ夫人(同8年)、駅前通りの魚屋の鈴木亭二らが受洗している。
この頃の教会関係記事の中に中村ホーリネス教会の消息を示すものがある。
中村基督伝道
中村ホーリネス教会主催持別伝道会は十四日午後七時より同町向町公会堂に開催したが講師は仙台ホーリネス教会植松英雄氏(昭和8年12月15日福島民友)
ホーリネスというのは、「聖潔」の徳目を尊ぶ一派で救世軍と同じくメソジスト教派から分派した。昭和8年に日本伝道を開始して全国に教区を設けて布教運動に乗り出した。その大きな波紋が、東北の片田舎の中村まで及び、ここから原町にも及んできたのだ。
伊達郡、飯野、川俣では大正時代からホーリネスの教派が布教されていたが、聖霊派の熱心な祈りの一派であり新鮮な魅力であったというが、大半の信者は(日基の)壇上からの福音主義的信仰にとどまった、とされる。
原町市日の出町の平野ハルエは岩手県大船渡の生まれ。「私は17歳のときに一関で路傍伝道をしているホーリネスの牧師の説教に初めて触れて心をひかれました。働くために各所を動いていたので洗礼をさずかる機会がありませんでしたが牧師について千葉県にゆき、麻布のホーリネス教会にも通いました。証するにも、あんたズーズー弁だねと言われたりした。原町に来たのが昭和8年。野馬追祭のころ、7月に新田川で洗礼を授かりました」浸礼である。
「原町に信徒は5~6人おりました。若い人や女性だったで嫁に行ったりて今は殆ど原町にはいません。あの頃のことですから中村から、新田牧師さんが自転車で原町まで通ってくれていました」という。
信田沢の小林かね(81歳)もこの頃にホーリネスに触れた。長寿荘に健在。
ハルエは石川製糸工場に3年間勤め、寄宿舎に住んだ。工場ではキリスト教講演が行われたのを覚えている。昭和12年に、同じ信仰の平野栄之進と結婚。日本国内の経済は逼迫の度を強めていたたため、夫妻は新天地を求めて13年に満州に渡っている。
ホーリネス教派は、戦中に国家の命令で日本基督教団に合同させられたが、戦後は敗戦によって呪縛が解かれたかのように、いちはやく日本基督教団から分離して行った。原町での活動は戦後の一時期、ホーリネス教会牧師夫妻と若者たちを中心に展開することになるので稿を改めて戦後編に書くこととする。
東北凶作と原町
昭和9年の東北凶作とマデン夫人の義金
昭和6年に原町に婦人矯正会が結成され翌7年には石川組製糸工場と原町紡織工場に日曜学校分校が設置された。
昭和8年の冷害は米の主産地東北地方に甚大な被害をもたらした。収穫のない困窮農家から娘たちが遊郭という苦海に身売りされて社会問題となったのはこの頃である。
飲酒の害悪、人身売買、都会の不景気。そんな世相の中で農村は冷害と貧困とに見舞われていた。かつて仙台など東北に教会を建設し、大阪に移って独立して伝道活動を続けるマデン夫人は、佐藤政蔵へ手紙を書いて小為替を送っている。東北農民の窮状を知って、彼女の心は東北の信徒のもとに飛んだのだろう。パンに窮している時代には、なおさら精神の糧が必要だった。
宗教的人類愛が生んだ美挙
大阪のマデン夫人から佐藤政蔵県議へ義金
最近兎もすれば荒み勝ちな国際問題の話題を生む際、荒寥たる凶作の原町に宗教的人類愛がきざんだ美はしい花を一ツ
▽一▽
廿一日開会の県会議事堂民政派議員控室の相馬郡選出佐藤政蔵氏宛英文のレターと共に十円の小為替が届けられたのは大阪市北区天満橋北詰の米人宣教師マデン夫人で、左記の手紙によっても示されるやうに堅く結ばれた友情と深い信頼とが崇高な宗教心の上にあらはれてゐて純朴な佐藤さんをただ感激にむせばしめてゐた
そもそもマデン氏夫妻と佐藤さんとの交はりは明治末期から始まる、同夫妻は明治二十八年異国の土になる決意を堅めて来朝した、そして仙台市に教会を設立して伝道に当たっていた同四十三年ごろ、一兵士であった佐藤さんが暇あるごとに教会の扉を叩いては熱心に説教を傾聴してキリスト教への信仰が深まるにつけ、親交も深まり大正九年同夫妻が大阪に旅立った現在に至るその間も四季を通じて音信を絶へたことはなかったもので、すでに日本の土となることを希ってゐる程の夫妻は東北の凶作に悩む人々の事も決して異国人の出来事とは考へられないだらうし、夫君が商業学校に教鞭をとる薄給の内からさいた十円も正に貧者の一燈程の輝きをもつもので、どう云ふ方面に使用されますかと問へば佐藤さんは感激しつつ
教会関係のもの故帰郷の際教会の人々と相談してマデン氏の意志を生かす様にするつもりだと語った(以下手紙全文)
親愛なる佐藤様
新聞は東地地方の哀れな飢餓を報導して居ります。私共は非常に悲しんでます。憂ふべき時に対して私共の友達のために奮起して助けることを神様に祈らねばなりません。然しあなたが御存知の通り只今私達はそう沢山生活上救ふことが出来ませんが少しくは助けることが出来ます何うぞあなたが最も必要と思ひなさることに十円を用ひて下さいささやかな教会でもお手紙に答へるために仙台宛にいくらか送りませう。一週間前に須藤さんが大阪におらるるお嬢さんに逢へに来られました。彼女は話しました、あなたの御手紙にあるように救はねばならぬ多くの人々の事を私に話しました。毎日私は何にか致したいと考へてましたが、そして私のお金のほんの少しを送ることが出来ました佐藤さんが救済せねばならぬ人々の事をよく知って居らるると彼女が言ってましたからクリスチャンの方々にも何うぞよろしく。主人はしばらくアメリカに居ります。健康のためと、伝道と、子供達に逢ふために行く必要があったのでした。すぐ帰って参ります、それで私からお手紙を差し上げた次第です。
佐藤政蔵の娘で大正二年生まれの片野桃子は、この記事とマデン婦人の手紙について「私が物心ついてからのうろ覚えのことなども真相もよく分かり、父がどんな経緯で入信したかもよく分かりました。私達兄妹もずっと日曜学校に行くのが当然と思って、千葉先生、多田先生、野口先生と….昭和六年頃までは教会とつながって居りましたが牧師不在の様になり…結婚、戦争と、つい教会から離れてしまいましたが、それまでは我が家の座敷でよく千葉先生や仙台の須藤先生を囲んで集会をして居りました。父の信仰は型よりも心(魂)であった様で、仕事がらといふよりはお酒も好きでよく頂きましたが、機嫌のよい酒で、教会のきまりはきびしすぎた様でざんげを繰り返して居りましたが、決して人を疑はず、恨まず、そしらず、差別することなく一生を終りました。子供たちもしらずしらずその精神で育てられ、貧乏しても気にせず、空の鳥を見よ、野の花を見よ、明日をおもいわずらうな、の生き方で一生を終わりそうです。この精神を子や孫に伝えることは出来ないかも知れません、世の中があまりにも物質主義になり、宗教でも科学でも止められない様な無気力を感じます。
議員時代にマデン夫人と神父さんとお子さまと揃った写真もうちの写真箱にあり、よく見た覚えがあります。」
という回想を筆者に寄せている。
ブラジル同胞からの義金 昭和10年には、ブラジルに移民した原町出身の渡辺孝(福島県人会創立者・初代会長)、初期教会メンバーだった菅山鷲造らが発起人となって在伯同胞が拠金しあい、凶作に見舞われた東北の故郷福島県に20万円の義捐金を送付している。関東大震災や戦後にもたびたび日本に救援活動を行ったほか、サンパウロに慈善老人ホームのための土地を寄付するなど社会厚生に尽くした。
在米二世同胞の訪問
田村文子女史の訪日についての記事
昭和10年の福島民報には、原町の話題として次のような記事も載っている。
在米日本人の第二世学生達五十人が母国見学団を組織して渡日廿八日横浜に上陸したとあるが、その見学団の幹事奥野正二郎氏(鳥取県人)の夫人は原町出身の(阿部源蔵氏令姪旧姓田村)文子さんなのであるが、ここ一週間内に生みの母田村ワキ刀自方をインタビューされるとのことで刀自を初め一族の喜びは只事でない
文子さんは米国は加州ロスアンゼルスの郊外ガーデナ日本人学園の先生をしていられる二十徹夫君も団員として来ている、十四五年振りに相見る刀自と夫人のシーンは蓋し涙なしには見過ごせない悲喜劇であらう?(「原町短波」昭和10年7月1日民報)
原町本町阿部市助氏の令姪田村文子さんは大正十一年渡米鳥取県人奥野正二郎氏と婚姻、今は徹夫(十才)さんという一粒種の可愛い坊ちゃんを儲けているが、六月下旬十四年ぶりで親子三人祖国見学団員として帰朝し、生みのお母さんをその実家に訪れたのは遂ここ一週間ばかり前の話
奥野夫妻は加州ロスアンゼルス市近郊ガーデナといふ所の日本語学園の教師として米国生まれの第二世達へ日本語を以って教育する重要なる任務に就いている、氏等夫妻の十四年ぶりに帰朝その祖国日本の見学より受くる影響は蓋し氏の今後の教育施設の上に少なからぬ覚醒を与えることであらう
学園の夏休みを利用しての帰朝の旅だったので奥野氏夫妻は席温まる暇もなき旅をつづけお母さんの膝下にも僅かに四、五日の滞在で、けふ(十六日)横浜埠頭を離れる米国ダラー汽船大統領クーリッジ号で祖国見学団四十名と共に帰米の途に就いた筈、切に健闘を祈るものである(「原町短波」昭和10年8月18日)
原町短波と佐藤一水
上記の記事を書いたのは佐藤一水という人物だ。昭和10年からの福島民報にはしばしば見かける原町短信ちうコーナー、あるいは原町短波という原町地区からの報告を織りまぜたコラムが、ごく原町教会に近いこの人物によって書かれたようである。
記事の中に、原町基督教会での子供活動写真会の紹介、田村文子女史の訪日の記事が出てくる。原町の行政(役所)、警察、キリスト教会の至近距離にいて、県紙の民報にほとんど2日おき、まれには毎日紙面に「原町短波」の記事が載ることさえある。ほとんどは客観記事の紙面の中で、コラム的な書きぶりで個人的事情にさえ言及し、筆者の自己顕示欲の強さを表している一方でその掲載量と報道量、執筆量は職業的なうえに積極的に熱心である。
昭和10年10月20日、22日の民報に佐藤一水の名前が登場する。「天明の飢饉と相馬郡の窮乏」という論評に署名入りだ。
その後、ひき続いて調査した結果、昭和14年まで「原町短波」は続いている。そのうち佐藤原町支局長という表現が出てくる。また昭和13年の分を調査継続してゆくと、福島民報2月8日号宮城版の「南相だより」に、佐藤ひげ郎に関する近況がのっている。
また12年中の原町短波の文章にも、ひげ郎さんを称揚する記事が見えている。原町短波の筆者は、佐藤ひげ郎とはかなり近い人物である。原町短波の掲載されている号を拾っていったところ、4月19日と5月27日号の原町短波には、「一水」の雅号が署名されていた。
一水というのは、かつて、昭和10年には相馬支局長として名前が掲げられていた佐藤一水という記者だが、これが12年中の記事に言及がある佐藤原町局長ということなのであれば、相馬支局長=原町支局長という意味になる。
佐藤一水(安治)
佐藤一水とは
佐藤一水という雅号については、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外に移住した大田村生まれの佐藤安治という人物があり、昭和4年に「加州に於ける福島県人発展史」という大著を出版している。この著作を執筆するにあたって、昭和初期に一時帰日して福島県庁の海外渡航した移民関係書類を渉猟してその統計を自著に克明に収録している。昭和5年には、安治は50歳を過ぎて娘に自動車を運転させてカリフォルニア州を縦断して点在する福島県人をほとんど訪問してその近況を報告している。これは昭和5年の「相馬郷」という相馬中学の同窓会雑誌に掲載されている。
昭和9年3月25日民報にロサンゼルスから、3月28日ロサンゼルス通信、というレポートを連載執筆している。
また戦後には、新制の原町高校にて海外の日系移民社会についての講演を行っている。これは原町高校の創立50周年記念誌に記録されていたのを見つけた。
こうしたことを考えると、さきに送った田村文子女史夫妻の記事は、まさにこの佐藤一水の文章である。
アメリカ移民の同胞の日本訪問記事中の「(田村)文子さんは米国は加州ロスアンゼルスの郊外ガーデナ日本人学園の先生をしていられる」というのは、同じカリフォルニアの住人としての共感を込めての記述と解するべきものであると判断されます。ガーデナというのは、日本人とくに福島県人たちの移住先なのです。1991年には、私自身が取材で浪江町出身の二人の移民に面会してきました。そのうちの一人は、まさにガーデナの住人でした。
驚くことには、ことし教会史を調査中に、故・成瀬牧師の記録した冊子「原町キリスト教会65年史」に、教会最初期の明治30年代には原町キリスト教会のメンバーとしてもその名が登場している菅山鷲造や堀川才蔵らがブラジルに移住しているのを発見し、また昨年までには鉄道史を調査しているうちに明治35年の民報に、開通したばかりの常磐線の汽車に乗った体験を描いた文芸愛好家としてのペンネーム佐藤一水の短文が掲載されているのを発見した。著書によると一水はアメリカで日本語雑誌の記者をして生活していたらしい。
さまざまな歴史の断片から、すこしずつ、つないでゆくと、忘れ去られた人物がいきいきと浮かび上がってくる。
昭和18年頃から終戦にかけて、福島民報中村支局に佐藤一水という記者が存在していたのは、知っていたが、探していたアメリカ移住者の佐藤一水とは別人だと思っていた。ところが、実はその本人らしいことが分かった。
移民史の取材を兼ねて昭和初期に一時帰国したのを機会に、五十歳を越えた佐藤一水は、昭和10年には帰日し、日本と中国との戦争、アメリカとの戦争の期間を、郷里で民報の記者をして生計を立てて、戦後までいた訳だ。
昭和15年のニュースに、原町教会創立40周年と古山牧師の新任を伝える記事があるが、これも佐藤一水による。
昭和18年以降は、渡部毒楼という人物が福島民報原町支局長として戦後の22年ころまで記者をつとめていたが、この人は鹿島町生まれで、大正10年に最初に野口英世の伝記を博士在命中に書いた人物である。
いずれにしても、佐藤政蔵もまた彼らの至近距離にいたし、キリスト教、文化、政治、新聞、文筆という世界では同じ仲間だったであろう。政蔵自身でさえ子孫の間でしか知られないのに、原町を去った一水や毒楼、その他のユニークな人物については知る人は今日では皆無であるが、ふるい新聞の活字の迷路という墓の中から彼らを揺り動かして、かっての原町の面白い時代の話に耳傾けると一時代のいきいきとした姿が浮かび上がってくる。
原町短波子・佐藤一水が伝える佐藤政蔵についての消息を紹介する。
昭和13年2月8日 南相たより 福島民報宮城版。
大田村西方治翁の銅像除幕式に参列した原町の「ひげ郎」事佐藤政蔵氏は謹厳そのものの如き祝詞を固くなって述べていたが最後のドタン場でいよいよ本来の本音を吐いて朗吟、姓名詠み込のヘナブリ一首
西なれどひがし北から南まで
方治なれども圓く治めし
またその娘である桃子さんについての消息もある。彼らは原町基督教会のメンバーである。短波子が教会に近い人物である理由は、愛情をこめて自分の記事にこうした人々を取り上げていることからも分かる。
原町短波 昭和13年12月8日
銃後の家庭に在っては洋裁は婦人の常識であらねばならぬ-といふモットーで原町太助町文化通りの、片野歯科医院内に洋裁研究所が開設された、主任は片野桃子さん、助手は佐藤桃代さんで修業一ケ年、女学校制服、婦人子供服や廃物利用改造服をも教授するといふ、知れ!今や時代は軽快で経済的な洋装が一般家庭の寵児であることを