明治33年、原町講義所を設立し、初代牧師として秋保親穂氏が着任した。この頃既に小高町からも中村、原町の集会に出席して基督教を学んだ人々があったと思われる。この当時の日本の時代を一瞥すると、明治二十二年(一八八九年)には大日本帝国憲法が公布されて、一応「信教の自由」が憲法によって保証され、翌朝治二十三年(一八九〇年)には第一回の衆議院議員選挙が行われて中島信行等九人の基督者候補が当選した。またY・M・C・Aが結成され、社会問題研究所や労働組合期成会の結成等富本の現状保革進の目が向けられ、日本社会民主党が結成されて近代日本の形成に新しい運動が展開された時代でもあった。
更に基督教界にも内村鑑三氏の一高等学校における「不敬事件」を口火として「国体とキリスト教」が論争され、国粋的な思想を持つ人々と対立抗争の烈しく成った時であった。このような時代に新しい思想を求めて教会に出入する進歩的な青年達私各地に起ったのは当然で相馬地方もその例外でなく、中村も原町も多くの青年連が教会の門をくぐったようである。
宣教師ノッス、巡回伝道者木村清松、その他の伝道講演も開催されて教勢は着々伸びていった、そしてこの年正式に小高講義所が設立されて引続いて梶原教師がこれを指導した。その年の教会員は新たに受洗した鈴木ルイ、石川佐吉、入江ハル、大曲ツル子、井上茂太郎、林与八、藤原書助、高橋孜、末永栄助等を加えて四十二名に達し、礼拝出席平均十五名、祈祷会出席平均六名であった。
小高講義所の設立当時
(明治三十六年(一九〇三年)-一明治四十二年(一九〇九年)
小高講義所が設立された明治三十六年(一九〇三年)の十二月に日本基督教会総裁片岡健吉氏が永眠し追悼祈祷会が行われた。同氏は基督者政治家で衆議院議員として国政に当り衆議院議長を努めた人で基督教界では重要な人材としてその死が悼まれた。
明治三十七年二月(一九〇四年)日曜学校を生徒三〇名、教師二名で開始し以来日曜学校は日と共に盛大になり多くの学童が宗教々育を受けることに成った。この年に小高を来訪して特別 伝道集会を行ったのは平講義所牧師吉田菊太郎、中村講義所の斎藤壬生雄牧師、仙台の佐々木純一牧師、宮城女学政のファスト宣教師等であった。
また同年五月二十七日会員高橋きよ子が永眠し自宅に於て基督教式による葬儀を執行したがこれが小高町に於ける最初の基督教式葬儀であった。
土田熊治牧師
明治三十八年(一九〇五年)五月土田熊治牧師が着任し、茲にに初めて専従の定住牧師が与えられることになった。土田牧師は双葉郡幾世橋村にも伝道を開始し教勢の拡大につとめたが、この年に小高に応援伝道に来た人々は東北学院教授の笹尾粂太郎博士、宣教師ワイドナー夫人、東北学院長シュネーダー博士等があった。殊にワイドナー夫人は婦人大会を開いて、八○名の聴衆があり、小高町手八景の機業工場で女工員の集会も本年のクリスマスから開くことに成った。
この年のクリスマスには四百名の来会者があり、本年中に受洗した人々には渡辺仙蔵、山岡隆規、伊藤市兵衛、志賀清寿、入江ツギ(以上梶原教師)原田兼太郎、鈴木雄八(以上シュュネーダー博士)等があり会員総数四十九名(内男三二、女一〇、小児七)となり、礼拝出席平均十七名、祈祷会十三名、日曜学校生徒六〇名であった。
明治三十九年(一九〇六年)四月土田牧師は原町講義所に転じ、小高には毎週出張することに成り、原町と小高とは協同の歩みをすることになった。
この年斎藤壬生雄、佐々木純一、吉田亀太郎の諸氏が度々来高して伝道集会を行ない受洗者も横山寅蔵、佐藤清吉、阿部ヨシ、渡辺クラ、石川イチ、石川シウ(以上斎藤牧師)あら林太邸、高橋ツネ(以上佐 々木牧師)など一〇名が加えられた。十一月には日曜学校生徒の父兄会を開催して七〇名の出席者があり、十二月には貧民クリスマスを催して貧困家庭の人々を招待し七○名の出席があった。
明治四〇年(一九〇七年)一月から聖書研究会を定期に開くことにし、婦人会も毎会二〇名、日曜学校は七、八○名の出席者があった。
然し一方会員の中には信徒としての義務を欠き信仰回復の見込のない者が生じ、教会々議は十一名に除名の処置をとった。そして明治四十一年(一九〇八年)十二月には土田牧師は秋田教会に転じ、佐々木純一牧師が一時小高に着任したが翌四十二年には原町に転じ、小高講義所は杉山牧師を迎えたのである。
杉山牧師の時代
(明治四一十三年(一九一〇年)…-大正五年(一九市一六年)
明治四十三年(一九一〇年)五月、健康のため一時郷里大阪府佐野町で静養していた杉山元治郎牧師が小高講義所(以後小高教会と称する)に着任した。杉山牧師は当時無牧となった原町に出張すると共に、大みか、幾世橋、金房、太田和等に集会を持ち、当時では稀しいオートバイを走らせて活溌に活動した。殊に近隣の農民に福音を伝えると共に、専門が農業技術で元大阪府技手であった経験を生かして農事の技術指導にも当り、鹿島の八沢干拓事業に助言者として活躍し、八沢村に日曜学校を設け、伝道集会を開いて精神面の指導に当った事は有名である。
杉山牧飾の活動とその影響は多大であるがこの稿では教会関係の概要を記録することにとどめるが、杉山牧師の自叙伝から小高教会着任当時の状況を抜粋して当時を偲びたい。
「半年あまりそうした寮養生活をしているうちに、ほとんど全快した。それで気候のよい郷里地方で伝道の手伝いをするつもりでいたところ、シュネーダー博士から、もう一度東北に戻って来いとの懇望が強い。永い間恩義を受け、病気の間も蔭になり日向になって助けてくれた先生のいうことであるから、東北に行くが、一番温い土地であること、病気のことであるから、半伝道、半療養の出来るところであれば行くと返事した。すると一番温いところは、磐城の平であるが、平教会は一寸面 倒で、病後の人には一寸むずかしい。しかし小高なら温いし、信者も数人で適しているから行けと任命がきた。
農民運動に専念するため大阪に去り、一時賀川豊彦氏と協同して生活協同組合を組織しその理事となり、四貫島セツルメント館長を兼ねて飛躍の時を待つことに成るのである。
杉山元治郎と小高教会
杉山、ノッスを語る
鈴木安蔵の周辺
鈴木良雄 父親は鈴木良雄というプロテスタントのクリスチャンだった。雑貨商を営み、小高銀行の支配人代理を務めた経済人であるとともに、俳句の盛んな小高にあって代表的文化人であり、正岡子規門下の俳人。はじめ愚堂、のちに余生と号した。惜しまれて27歳のとき肺結核で死去。
鈴木良雄夫妻の教会記録
鈴木安蔵 安蔵もこの父と母、姉の信仰するキリスト教の思想下で自己を育み、人道的な視点から法学者への道を歩んだ。若き日の安蔵少年は小高教会に通い聖書を学んだ。相馬中学の弁論部で活躍し第一回県下弁論大会で優勝。また当時は校内で黙認されていたリンチの蛮風を追放しようと同盟休校を指揮。二高社研ではマルキストとなり、大正デモクラシーの思想的バックボーンを作ったといわれるクリスチャン学者吉野作造博士の学風を嗣いで、日本憲法学の始祖となった。戦後の民主的憲法草案の鈴木試案を書いたことでも知られる。
(「鈴木憲法学・生涯と展開」より)
無牧時代
(大正十年)(一九二一年)~昭和初期
阿曾沼幸之助牧師
杉山牧師転出の後仙台市東六番丁教会から阿曾沼幸之助牧師が着任した。同時に宮城女学校聖書専攻科学生 俣マキ、鈴木瑛子両姉がこれを助けることになり毎週出張して日曜学校その他の働きを分担し、クリスマス等は来会者二百五十名の盛会であった。然し阿曾沼牧師は健廉が勝れず充分な伝道活動が出来なかったが、病苦をおして各集会を守り、会堂の建物が不安定で町民からの苦情もあったので大改築を実施し、伝道局の援助も得て、平屋建の会堂に改造し、牧師舘を附設することにした。
大正十年(一九二一年)三月には中村教会で聯合礼拝と一日修養会があり当教会からも七名出席した。同年八月には原町教会の林ふみ婦人伝道師も来援し、村上海岸で原町教会との合同親睦会を催し二十数名の参加者があった。この当時の日曜学校は毎日曜録、七〇名の学童が出席し、藤田保恵姉(藤田医師夫人)、木幡茂男氏、林ふみ伝道婦が指導した。
同年九月頃から阿曾沼牧師の病状悪化し同年一月遂に永眠され、ペンキの香も新しい会堂で、土田熊治牧師司式の許に葬儀が行なわれた。
翌大正十一年(一九二二年)四月新任牧師着任まで結城国義牧師(亘理)、土田熊治牧師(仙台)、ノッス宣教師(会津若松)、秋保牧師(仙台)、田村剛教授(東北学院)等の応援を得て集会を続けた。
大正十一年四月成瀬高牧師が一時定住したが、林ふみ婦人伝道師と交替し、林女史が小高に定住、成瀬牧師毎週出張し、浪江にも出張伝道を行った。
大正十二年(一九二三年)九月京浜地方大震災が発生し、基督教会でも罹災民救済運動を起したので小高教会も町内に募金を呼びかけ、金拾六円拾参銭の募金があり現地に送金した。
大正十三年(一九二四年)八月には相馬地方各派教会の夏期臨海学校が新地海岸で開催され、小高教会からも木幡茂男他日曜学校生徒数名が参加した。同年林伝道婦は結婚して東京に去り、鈴木瑛子姉が伝道を助けた。この年来訪して伝道を応援した人々は五十嵐正氏(東北学院)、宣教師ヌーゼント、坂内実喜牧師(三春)等で四、五〇名の来会者があったが、定期集会は余り賑わず礼拝一○名、日曜学校四〇名であった。
大正十四年(一九二五年)十一月成瀬牧師は会津高田教会に去ったあと暫らく定住者はなく、原町から佐藤信雄牧師が出張したが、間もなく原町を去り、昭和二年(一九二七年)八月飯坂教会から瀬尾政夫牧師が着任して漸く定住牧師を与えられた。
瀬尾政夫牧師
そして久しく不定期だった各集会を再会しクリスマスには二百名余の会衆があった。昭和三年(一九二八年)には男子四名、女子一名計五名の受洗入会者を加えられ、教勢も徐々に整備されて来たが、瀬尾牧師は病弱のため臥床の時期が多く、原町教会から諏訪牧師、浪江伝道所から蓬田吉次郎牧師の応援を受ける他東北学院神学部生の伝道旅行、ノッス宣教節や小林亀太郎牧師の特別 伝道を行なった。
尚教会員名籍を整理し、所在不明者や長年教会に義務をなさない者等十一名を整理した。
昭和三年来の教勢報告には現住会員男子七名、女子五名、小児四名、合計十八名。他住会員男一名、女三名、小児三名、計七名とあり、礼拝出席者は平均七名、日曜学校出席五十二名となっている。昭和四年(一九二九年)も引続き瀬尾牧師病床のまま原町教会から鶴沼よしえ婦人伝道師、浪江から蓬田牧師の応援を受け、昭和五年(一九三〇年)には、諏訪牧師に代って原町教会に赴任した小林寿雄牧師等の応援を得て集会を続け、その間、ミッション伝道聞始五○周年記念伝道のため小平国雄牧師(東京神田教会)が来高して、特 伝道を行なった他東北学院教授矢野猪三邸、宣教飾アンケニー氏、杉山元治郎氏等の特 集会を開き四、五〇名の来会者があった。昭和六年(一九三一年)には瀬屋牧師は病弱のため牧界を去り、間もなく他界された。その後は無牧状態のまま原町教会から小林牧師と細川モト伝道婦が出張し、昭和八年(一九三三年)小林牧師が原待ちを去ってからは、浪江伝道所の蓬田牧師が週一回出張することとなり、教会役員渡辺安、木幡茂男両氏が教会の管理に当った。
六、戦時中の教会
–昭和十年から終戦まで-…
昭和十年四月から原町教会に着任した小野寺恭治牧師が、小高教会を兼務することに成ったが、既に当時は思想取締りが厳重になり、特高課の新設、憲兵隊の思想係設置等により、日本共産党の検挙が盛に行なわれることに成って、宗教界にも、宗教団体法案が反対運動にも拘らず国会を 過し、国家総動員法が公布されるなど日本は一路ファッショ化に向う時で、キリスト教の伝道にも種々な影響があり、伝道の困難に突入することになった。
昭和十三年(一九三八年)には米国教会の援助から離れようとする牧師と時期尚早として従来の関係を持続しようとする牧師とが対立することに成り、東北中合は前者を主張し、後者に属する人々は新に奥羽中合を設立し、各教会はその所属を決定することとなって、小高は奥羽中合に属した。小野寺牧師は原町教会との意見を異にし、昭和十三年十月小高に定住することに成り、久しく無牧であった小高教会も漸く活気を取り戻すことに成ったが、時代は教会活動にとって、極めて不利な状況に成りつつあったので、主として日曜学校を中心に教会活動を続けた。小野寺牧師は地域に奉仕することと日曜学校幼稚科の教育の整備を考えて、幼稚園を開設することとし、地域の人々の協力を得て、昭和十四年(一九三九年)四月園児の募集を行ない、鈴木さだを姉を主任として教師一名をもって園児四〇名を収容し、小高幼稚園を発足した。これは小高町に於ける幼児教育の先駆である。
小野寺牧師は、困難の中に伝道と幼児教育に専念したが、時代に相応した事業を目指して青森県に去り、後事を教会役員及鈴木さだを姉に託した。然し教会員は減少し僅かに山田弘氏、木幡茂男氏、橘定彦氏、鈴木瑛子姉等が教会を維持したが伝道活動は全く閉鎖され、幼稚園児も二、三〇人に止り、更に基督教会全体が苦境に立たされた結 、小高教会は有名無実の存在に成った。そして昭和十六年(一九四一年)国策に基いてキリスト教三十三派は合同して、同年六月日本基督教団が設立されたが、無牧であったことと責任者が明確でなかったことにより、小高教会は日本基督教団の教会名簿から脱落した。教会堂は荒廃し、その中で幼稚園が細々と経営を続け、時には会堂の接収の危機にも臨んだが、山田医師、木幡茂男氏等の努力により漸く接収をまぬがれた。
第二次世界大戦は苛烈を極め、日本は無謀な戦線拡大によって世界を敵として戦う結果 となり、昭和二〇年(一九四五年)世紀の敗戦を喫し、五年余に亘る戦火はその幕を閉じることとなった。(成瀬稿)
小高伝道所の復活
七、終戦后の教会
昭和二〇年(一九四五年)から昭和三十二年(一九五七年)まで
終戦の混乱の中で、基督教会は再び活動を開始し、各教会共活気を呈して来たが、小高教会は日本基督教団から脱落しており、責任者は誰れもおらないまま辛うじて幼稚園を継続し一時小高小学校長を園長として運営した事もあった。
昭和二十三年(一九四八年)長く官界にあった成瀬高氏は牧界に復帰し再び原町教会を牧することに成ったが、かつて小高教会牧師であった杉山元治郎代議士は小高教会の日本基督教団からの脱落を発見し、成瀬牧師にその調査と再興を依頼した。
成瀬牧師は小高町に山田弘氏、木幡茂男氏、橘定彦氏を訪れ、小高教会復興を話し合い直ちに東北教区に対し小高伝道所設立を申請し、成瀬牧師がこれを兼牧することとなり先ず日曜学校を開始して橘定彦氏がこれを助け、小高幼稚園を本来の小高教会運営を明確にして鈴木さだを姉がこれを助け、毎週日躍日夜伝道集会を聞始することとした。
昭和二十五年(一九五〇年)教団の接助及地域の協力によって会堂の修理及給食室増設を行ない、当時の状況としては幼稚園よりも保育園として運営することが適切との判断から町当局に度々そのことを進言し、実現を期したが、町当局の理解を得ることが出来ず、一時小高保育園の名称を用いたが再ぴ、おだか幼稚園と名付け教会立として継続した。諸般の整備を進めた結果 翌昭和二十六年四月には園児六〇名の入園があり、園長成瀬牧師、主任教諭鈴木さだを教師鈴木玲子、成瀬慰子の陣容をもって運営することが成り、日曜学校は教会学校と改めて橘定彦、鈴木鶴子、成瀬慰子三名を教師として、一応の態勢を整えることになった。
その間賀川豊彦、黒田四郎両氏を招いて、小高農高その他で特別 伝道を行ない、小関敬之輔牧師を講師として映画伝道を催し、クリスマスには原町教会青年会が応援してクリスマス劇を演ずる等を実施して教勢挽回に努めたが、定住牧師の必要を痛感し、昭和三十年(一九五五年)東北教区の斡旋で山口書雄牧師を迎えることに成り、また東北教区福島県内一〇ケ所でラクーア特別 伝道が開始されて当地区も鹿島町にラクーア伝道のセンターを置き、江原惇牧師が着任したので、地区牧師会が発足し、昭和三十一年(一九五六年)八月に第一回太平洋聖書学校と言う名称で各教会合同の夏期修養会を相馬郡新地海岸で二泊三日開催し、当教会からも数名参加した。
翌昭和三十二年二月(一九五七年)山口牧師は小高教会を辞して郷里弘前に帰郷したので、原町在住のシュレーヤ宣教師夫妻が小高教会の責任を持つことになり、幼稚園はミセス・シュレーヤを園長として、烏井戸幸子姉が主任、成瀬慰子姉が教師と成oて運営した。シユレーヤ宣教師は、成瀬牧師と協力し、教会敷地の拡張を計画、教団助成金及その他の献金を併せて経費一〇〇万円をもって隣接地一〇〇坪及住宅(未完成)一棟を買収した。
昭和三十三年(一九五八年)シユレーヤ宣教師夫妻は二年間の休暇帰国のため、ヨーロッパ経由で帰米し、専任牧師として佐藤仁牧師が着任することとなり、買収した住宅を整理して牧師舘とし、そこに居住した。
小高教会 33~56年
地区教会協力伝道時代
-昭和三十三年(一九五八年)昭和四十年(一九六五年)
昭和三十三年(一九五八年)頃から相双地区の協力伝道の気運が高まり、世界祈祷日には各教派教会合同の祈祷会を婦人部が主催となって行なうことに成り、その第一回を中村福音教会で開催して八○名余の出席があり、夏期には年々合同の修養会を太平洋聖書学友の名の許に回を重ね、復活節には地区教会合同の記念礼拝を行って五十七名の出席者があった。
この当時の相馬地方は、中村教会に藤本光栄牧師、鹿島栄光教会に江原惇牧師、原町教会に成瀬高牧師、小高教会に山内春雄牧師が定住していたが、昭和三十二年には藤本牧師は中村教会を辞任し、同三十三年には山内牧師が小高を去り、続いて中村教会に古山金作牧師が、昭和三十四年(一九五九年)には佐藤仁牧師が、小高教会に着任することになった。佐藤仁牧師は小高教会に十年余の間定住して種々の業蹟を残したが、その主なものを挙げると、先ずおだか幼稚園の整備に力を注ぎ、五年計画をもって園舎の改築及増設を計画して今日の設備を実施して、福島県の認可を取り教会附属幼稚園の性格を明かにして、小高教会附属幼稚園と改称し、母の会を強化してその活動を指導して「母の友文庫」を創設して母親教育を志す等意欲的に活躍した。
更に教会学校の形態と宗教々育の徹底を計るため「夏期学習キヤンプ」を行ない、地区の教会学校と共同して宮城県利府町にある「森郷キャンプ」場に於て四泊五日の夏期キヤンプを実施して五年間に亘ってこれを指導した。また相双地区教会の実態を考慮して、合同教会構想を地区の牧師達と発想してその中核となって努力し、広く全国の合同教会構想の地方を実地検分し、浪江教会の伝道開発には原町教会の成瀬牧師と共に熱心に活躍する他、昭和四十年には小高教会六〇周年記念会及歴代の信徒の永眠者記念会を行って、杉山元治郎氏を招いて有意義な会合を行ないその実績は高く評価されている。
地区合同教会以後
昭和四十二年(一九六六年)~昭和四十八年
相双地区の合同教会構想は着々実現の方向に向ったが、各教会の内部事情は必ずしも充分統一を見ることが出来ず昭和四十二年(一九六六年)四月原町教会に於て、合同役員会を開催し、審議の結果 時期尚早との結論に達し、五年間に亘る努力に一応終止点を打つことに成ったが、数年に亘る地区内教会の協力関係は他の地区に見られない親密度を加えたことは決して無意義ではなく、そのことを今後継続して行くことを薩認し合って「相双地区伝道協議会」を組織することになった。
その間浪江伝道所の設立により宍戸七彌牧師が着任、鹿島栄光教会は江原牧師渡米のあと、四国阿波池田教会の野村幸男牧師が着任、更に野村牧師は再び池田教会に復帰したので、古屋朝則牧師が着任することに成った。
昭和四十四年(一九六九年)新春早々中村教会に於て地区伝道協議会総会を開催して、種々協議を重ね五年余に亘る合同教会構想の実蹟を回顧し、今後の地区教会の協力関係を協議した。相双地区伝道は茲に新たな方向を模索することに成ったが、小高教会も自ら従来の方針を検討することに成り、数年間続けた学童の「学習キヤンプ」を昭和四十四年をもって中止することとし、新たな方法を考えることに成った。その間長い間協力関係にあった原町教会の成瀬牧師は、老令と健康の故に隠退を表明し、佐藤牧師と成瀬牧師との間に原町教会、小高教会合同の話合いもなされたが、実現に至らなかった。原町、小高両教会の歴史的関係から見ても両教会の合同は考慮に値することは言うまでもないが、単に牧師同志の合意のみでは果 たされないことである。
昭和四十五年五月(一九七〇年)成瀬牧師は正式に牧会を隠退し、北海道教区八雲教会牧師片山義明氏が後任として赴任した。
昭和四十六年(一九七一年)佐藤仁牧師は山梨県勝沼教会の招請により、翌年一月小高教会を辞任して、小高を去ることに成り、地区合同礼拝を小高教会で開催して、佐藤牧師の離任説教があり、約十年間の小高の生活を終って新しい任地に赴いた。
小高教会の今後については当分定住牧師を招かず、原町教会の兼務と言う目標で、片山牧師が、佐藤牧師の事務を引継いだが、東北教区の方針の許に東神大新卒の斎藤康彦牧師が赴任することとなり、同年五月東北教区田中議長が来訪就任式を行った。
更に昭和四十七年四月には鹿島栄光教会の古屋牧師の石巻教会転出に伴い、古山牧師が鹿島栄光教会へ、中村教会には新任山口牧師が、そして宍戸牧師の隠退に伴い、浪江教会には松島牧師着任と相双地区は全般 的に異動が行なわれて、愈々新しい時代に突入した。
その結果従来の地区教会連帯関係は大きく後退し、各々各教会が独自に教会形成に努力することに成った。小高教会もまた従来の方針を褒更することに成り、斎藤牧師の指導の許に教会内部の確立に当ったが、昭和四十八年三月斎藤牧師の東新潟教会転出が決定し、教会は止むなくこれを承認した。そして斎藤牧師辞任の後の方策につき、東北教区議長菅牧師及原町教会片山牧師の来訪を得て、種々協議の結・、定住牧師を急速に求めることが困難であり、当分原町教会片山牧師の兼任とすることに合意した。然し原町教会役員会は、片山牧師の兼牧に難点を示し、小高教会を当分無牧のままとして応援することを決定した。
そして当分の間原町教会名誉牧師成瀬牧師に応援を依頼することに教会の意見が一致し、教会及幼稚園を従来通 り続けることとした。
四月教会総会では教会創立七〇周年記念行事を本年十月を期して、実施することを決議し、その準備をすすめることと成った。
牧師移動時代
昭和四十九年(一九七四年)昭和五十八年十月現在
一九七四年から現在に至るまで、この小高伝道は四名の牧師を迎えた。
この中で小高伝道所に定住して伝道・牧会に当られた先生は、中沢牧師だけである。松島牧師は浪江伝道所と兼牧であったし、中井牧師も鹿島栄光教会の主任であり、代務教師であった。これらの困難な牧師移動の時代にあって、小高伝道所を守ったのは、忠実な信徒を主が残されたことと、成瀬隠退牧師に甚大な助けを受けたことを忘れてはなるまい。
相双の各教会にとっても牧師移動の時代であった。附属幼稚園は幼児減少の時代に入ったが、ある程度の数は満されてきたことは幸であった。
五十六年三月に不慮の火災にあい、園舎一棟を全焼したが、町や教区の援助によって、以前よりもりっぱに再建さされ、教室が一つ増やしたことは、良い決断であった、と思う。
成瀬高校本より