1の8 私とキリスト教
 キリスト教との出会いは、原町中学校二年生になった時クラス編成替えがあり、銀城信史君と同じクラスになった。ある下校の時、銀城君に誘われて無料で教えてくれる英語会話の勉強に行った所がキリスト教の伝道所だった。そこには2人のノルウエー出身の伝道者がいた。
 銀城君は戦後間もなく大甕村北原の手塚煉瓦屋の次男坊手塚光雄さんに連れられて、母と妹の三人で樺太から引き上げてきて、原町小学校の裏の火葬場近くに出来た引き揚げ住宅に住んでいた。父は朝鮮人だった。銀城君は天才的で学校には音楽の楽譜を持ってやってきて、教科書は全部教室の自分の引き出しに入れてあった。県の音楽のコンクールではトルコ行進曲で優勝している。いつもクラスではトップであったが原校から東大を受験して落ちてその後の消息は不明だ。
その後の消息を同級生がいうには流しのピイアニストをやっているらしい。
 その原町の教会があったのは「かわっぷち」と呼ばれていて(現在は埋め立てられている)そこの一軒家でノルウエ―人女性二人が聖書のお話を英語でしていた。二人はキリスト教の伝道者で福音会を開いていたのだ。それがキリスト教との出会いであった。
私はバレーボール部に入っていたため、部活の合間週に2回ぐらいの割で通った。中学校の先輩後輩十人くらい出席していて、先輩の優等生中野さんという人もいた。始めに教わった讃美歌は英語で「イント マイ ハート」「いつくしみ深き主なるイエス」「十字架の血に」「イエスの御名を呼ぶ」等であった。原町高校に進んでからは伝道所に通っていない(原町高校には二年の一学期まで通った。)。原町高校から転校した所沢高校2年生の2学期にカナダに移住した小山英次郎伯父と文通を始め、戦後日本に来た時に北原の我が家に立ち寄ってくれた従兄の小山 誠一さんが日本にキリスト教の伝道に来ていることを知った。伯父さんから誠一さんの住所を聞くと意外と近いところ、西武池袋線の沼袋にあるラングさん宅の側に住んでいることを知り早速行ってみた。
 ラングさんという人は当時東京外語大学の教授をしているニュージーランド人だった。誠一さんに会うことができ、カナダの伯父さんや従兄のことを聞くことが出来た。私もカナダに住んでみたいと思ったが当時カナダの受け入れが難しかった。日本からのドルの持ち出しの制限があり移住することは非常に難しいということだった。今(2013年)77歳で振り返って見るにこのキリスト教との関わりでのプラスの面とマイナスの面がある。兎に角マイナスの面と云えば全てに於いて消極的に成ったことだ。兄弟の事で悩み、直そうとした、其のことが許すということに繋がり、全てに於いて遠慮ばかりする人間になった。対人関係がキリスト者と呼ばれるひと握りの人間の為、人を疑うことを知らない、世間知らずの人間になってしまった。特に昭夫兄には一生騙され通しであった。キリスト教とかイスラム教の様な一神教は日本ではなかなか浸透しないだろう、日本の風土と習慣に馴染まないだろう。キリスト教のほとんどが毎週日曜日午前10時に伝道者による司会で礼拝が進められる、すごく排他的教信者集団である。伝道者が神の子、神の羊、身代りに成って感謝しようとしているその儀式がおかしいとおもう。キリスト者と自身を呼んでいる人たちは皆精神的な障害者である。多神教的な日本人を敵視するのはおかしい。
 1954年当時の関東地方の伝道者はカナダ人(デビス、小山誠一、メリー、ハンクス)、アメリカ人(コーリンズ、ラーン)、オーストラリア人(ウイルス兄、妹、グッドマン、クリスチャン)、日本人(西脇、星野、石塚、吉江、今中姉妹、浅香、)。
 沼袋のラングさん宅の日曜礼拝に出席していた人たちは浦和から小笠原母娘、田無の小島姉妹、ラング夫妻と2人の娘、三鷹の吉田(旧姓奥村)友弥、中野駅前の吉田(慶応卒)、今中姉妹(広島市、妹文子はICU勤務、姉は伝道者、当時広島大学の学部長をしていた彼女の父がICUの教授に就任した)。村井夫妻,杉本夫妻、山崎(東京、東大生)、礪波(富山県氷見)、輪島(金沢市)、宮田(富山県氷見市出身で弟、妹は2012年現在伝道者として台湾で働いている)、坪井(旭川 共立女子大生)、津端(厚木米軍基地)。等の人たちであった。
 片瀬江の島に住んでいた西谷カツ叔母さん(夫西谷大二は当時荏原製作所の工場長)に私から福音会に出席を進めると喜んで受け入れ、伝道者が片瀬の叔母さんの家で福音会を開くようになり、洗礼を受けた。カツ叔母さんには子供がなく、私が5歳の頃養子に欲しいといっていたそうだ。夫が亡くなって数年後藤沢の養老院にお世話になっていて、痴ほう症となり、東武線竹ノ塚駅側の介護施設に移され、そこで亡くなった。キリスト教式で葬儀を行い、数日後遺骨を静岡市のキリスト教共同墓地に埋葬した。誰も行くこともなく忘れ去られてしまうだろう。
 私は本格的に伝道者になろうと思っていろいろ伝道の手伝いをしたことがある。所沢の宮本町会館を無料で借りて周辺にビラを貼ったり所沢駅前や西所沢駅前でチラシを配った。伝道にはグッドマンさん、クリスチャンさん、吉江さん、星野さんが来た。多くの人が入れ替わり立ち代わり出席しましたが長く出席した人は中野さん夫婦、西武鉄道に勤めていた林田さんだった。林田さんは私がブラジルに行く際横浜港まで見送りに来てエスペラント語の聖書を下さった。
 ブラジルのロンドリーナに着いてからラングさんの奥さん(光子)さんから毎月便りをいただいた。杉本さん、吉田さん、村井さんからも激励の手紙を頻繁にいただいた。日本の吉江信子伝道師からの連絡でサン パウロからはイギリス人で当時70歳のロバートさん、若いブラジル人伝道者エルピジオさんが我が家まで礼拝に来て下さった。ロンドリーナの農場に入って後ローランジャのイタリヤ人宅での礼拝、ボン スッセッソのマリオ サロメ大農場でのコンベンションに参加した。当時は治安が良く私は16キロのコーヒー園の中を通る土道を歩いてコンベンションに参加した。500人ほど参加していて、私はポルトガル語が話せず英語で証を述べた。
 サンタ カタリーナ州のグァラミリンで農業をしていた時は隣町ジャラグァ ド スールの信者宅での礼拝に子供達を連れて出席した。クリチーバの集会にも数回出席した。

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