一.少年時代
1の1 生い立ち
昭和11(1936)年10月30日、私は福島県相馬郡大甕(オオミカ)村(現南相馬市原町区)北原西木戸十番地に高野国吉,キヨの四男として生れた。そこは常磐線の原ノ町駅を降り、大甕村北原の方に向かって行くと野々山瓦屋があり、そこの橋を渡って竹島瓦屋の向かえになっていた。駅から約15分。1キロ先には高さ200メートルの無線塔が立っていた。当時日本は軍国主義一色で大日本帝国の領土拡大や資源獲得と言う名目で中国にまで進出していた。日本国内の情勢はまだ戦争機運はそれほど高くはなく、社会的には安定していた。
父は国鉄(つまり日本国有鉄道)常磐線の機関士をしており、かなりの腕前であったらしい。戦前に3度、戦後に一度、天皇や皇族専用の列車、いわゆるお召し列車を運転したことが自慢だった。
母は家を守る主婦を務めながら父と共に1町5反ほどの山や畑を切り盛りしていた。1時期には使用人を使って野菜作りもしていた。その他小麦、大豆なども栽培していた。
そのときの家は大層大きな家だった。以前の養蚕農家を買い取ったとのことで屋敷には桑の木が沢山植わっていたそうだ。桑の葉は蚕の餌になるのだ。大きな部屋が8つあり、囲炉裏(イロリ)が三つもあった。表側と裏側に縁側が走り部屋の前と後ろを囲む構造であった。それに土間の表と裏の玄関、居間は後で足したらしく大きく、風呂は五右衛門風呂、大きな薪の竈、裏には道路に沿って大きな納屋があった。
家の北側には防風林として檜の木や杉、そしてその間に李、梅などが植えられていて、そのほか,柿が六本、無花果、アケビ、グミ、リッサ、シャグミ等が植えられていた。庭には小きな池があり周囲にはあらゆる盆栽、植木があり、池では釣りも出来た。
生家の東側は村道でそれの向こうには「竹島瓦屋」,「野野山瓦屋」、「高野瓦屋」、「深谷瓦屋」があり、田んぼの向こうに太平洋が見えた。西側はなだらかな坂で畑になっていて山の裏側は「熊谷飛行隊」の練習場としての飛行場があった。北側は「早川瓦屋」で真っ直ぐ4キロ先の突き当りが原町国民学校であった。(私は大甕村の小学校には行かず原町国民学校に通った) 南側は竹島瓦屋の納屋でその先に「手塚煉瓦屋」があり、そこの広場は我々仲間の草野球場だった。出征軍人たちはレンガ工場の見下ろせる山で数人「恩師の煙草」を歌っていたのが思い出される。赤紙1枚で戦地に行きほとんど戻って来なかった、
裏山の頂上には幼少時に亡くなった姉妹3人の墓があり「現在2,015年、両親とともに清瀬市の圓通寺に埋葬されている」、そこからは太平洋が見渡せ、遠くには金華山が見え、目の前に広がる田んぼの中には当時としては日本一高いコンクリートで造られた無線塔と数本の鉄骨で組み立てられた無線塔があった。関東大震災のときこの無線塔からアメリカのサンフランシスコに初めて発信されたそうだ。戦争中鉄骨で組み立てられた無線塔は解体されて軍事工場に運ばれた。
幼稚園には私達兄弟の誰も通っていない、私の小学校入学前の遊び仲間は隣の早川の貢だったが、瓦を造るための粘土を掘った跡が池になっていて、一人で遊んでいて溺れて亡くなった。そんなことも知らずしばらくの間、私は貢の名を呼んで遊びに行っていたそうだ。
小学校に入る前の記憶というとカナダに移住した小山英次郎伯父さんが私たちの家を訪ねたこと、紀元二千六百年の旗行列がバンドに合わせて小学校から出てきたのを校門の外に茣蓙をしいて小旗を振りながら見ていたことぐらいだ。
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