マッチ箱とランプと
当時の客車はマッチ箱と言われた。東京神田須田町の交通博物館には復元車が展示されていた。
三等の客車は両側に5つづつの扉があり、ここから乗り降りする。中に入ると両側に木の長椅子があり、ひとつの椅子に五人すわれる座れるようになっている。つまりひとつの扉ごとに客室になっていて、座席には五人づつが向かい合って座ることになる。客車全体で、この形のものが5つあるから、50人が乗れるわけである。客車を縦に通り抜けることはできないし、便所もない。天井には暗いランプが二個ついていて、夜間は人の顔がほのかに見えるくらいであった。暗くなると駅夫が屋根の上をあるいては各客車の屋根からランプを吊るす。
停車場には必ず、このためのランプ小屋があった。
夏目漱石の「三四郎」に、明治の鉄道の様子が描かれている。
「もとから込み合った客車でもなかったが、急に淋しくなった。日の暮れたせいかもしれない。駅夫が屋根をどしどし踏んで、上から灯の点いた洋燈(ランプ)を挿し込んで行く。三四郎は想い出したように前の停車場で買った弁当を食い出した。
車が動き出して二分もたったろうと思うころ、例の女はすうっと立って三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行った…・便所に行ったんだなと思いながらしきりに食っている」
「停車場」にはステーションと読みのルビがふってある。
「三四郎」は明治41年の作品で、ここに登場する汽車は東海道線ですでに列車に便所があった。しかしながら、汽車に便所が設けられたのは、開通後しばらくしてからのこと。開通当時は汽車に便所がなかった。
こんな列車が、明治31年になってようやく東北の原ノ町駅と小高駅にも開通した。
おかげで、当地の名物、相馬野馬追の祭りに、近郷近在からも見物客が蝟集するようになった。そのきっかけを果たしたのが、初期のクリスチャンたちだった。
いわく日本国憲法の産みの父である鈴木安蔵、その父親の鈴木余生、姉の鈴木てる子らについて語りたい。
小高教会の発祥の地
日本国憲法の産みの親鈴木安蔵の故郷小高教会について。
日本国憲法の民間の「草の根」憲法試案をまとめた鈴木試案。産みの親となった南相馬市小高区の鈴木安蔵の少年時代を過ごした小高教会のはじめ。
お隣の近藤政子さんより、昔の杉山牧師時代の逸話を語ってくれました。教会80年のあゆみに記述されているのをもとに質問し、かつて常国寺のとなりの細川という家を借りて集会を持って いたというのですが、今の商工会(むかし役場があった)の隣り当たりだそうです。板倉板金というのも、名前だけ残ってます。板倉という家はその辺らしい。
杉山が小高に来てすぐの時には旅館に泊まっていたが、その旅館でも集会は持ったようです。あるいはこの旅館というのは、大曲駒村の姉で未亡人のクリスチャンがかって宿をやっていたのでその家を借りたという場所のことだろう。
小高教会発祥の地をどこに確定するか、それはその史書をかく人が決定する。私なら、林薬局の先祖である鈴木良雄夫妻の持ち家で空き家になったのを杉山が借 り受けて云々とあるのが、それではないかと思う。娘の鈴木瑛(てる)は杉山の推薦で宮城学院に進学したし、原町教会でも小高教会でも伝道補助で働いた。弟に有名な安蔵もいる。
すでに中村や原町その他で洗礼を受けた信者が小高に何人かいた。それが、小高最古のキリスト教信者になった。小高教会創立は明治35年で、教会員名簿は 36年からいきなり多くの人名が記入されているのは、そのためらしい。洗礼者は、外国人やら、日本人牧師やらですが、ほとんど東北学院がらみです。
佐藤保助と初期基督教会
昭和25年刊の笹舟郷土志では(明治三十六年には中村基督教会より分離して、原町に日本基督教会堂が設けられました/原町日本基督教会堂 原町幸町会堂三間半ニ六間 信徒 大正十三年男女合二十人 押川方義及び米人ホーイの宣教を最初として阿曾沼幸之助は普通信者でありましたが、布教に熱心でありました。牧師週一度、中村より吉田亀太郎出張致しました。秋穂親晴はそれにかはり、原町専属牧師となられました。明治三十六年正月献堂式を挙げました。(会堂建築請負人松本松次、奔走者佐藤保造日清戦役ニ戦死)歴代牧師吉田亀太郎・秋穂親晴・土田熊治・佐々木純一・室井良治・成瀬高。〕と記されている。
斎藤笹舟の郷土史はたぶんに記憶に頼っており、奔走者佐藤保造が日清戦争戦死というが、日清戦争は27、28年の戦争である。会堂建設以降であるなら日露戦争の37、38年というのが合理的だ。
秋穂とあるのは正確には秋保。歴代牧師も脱落多く、こうした宛て字や遺漏からすると年代も内容も不正確きわまりない。
インターネットに、1999年以来、原町キリスト教100年史を公開していますが、以上のような部分にあるとおり、ここに掲示した佐藤保造という人物はなぞのままであった。
「政蔵の兄の保助かも知れない」
との片野桃子さんからのご指摘により、会堂建設の奔走者佐藤保造が、日清戦争戦死という共通項から同一人物であるなら、その後、政蔵が仙台第二師団に入営した期間に、東一番町のキリスト教会に出入りしてやがて原町の初期キリスト教グループの主要なメンバーとなってゆくことは、長兄の保助がすでにクリスチャンとなって会堂建設に奔走するのを見て、これに影響されて傾斜してゆくことになったゆえと考えることは自然であろう。
そしてついに、保助の日記が発見された。軍人手帳にびっしりと綴られた記録は明治廿七年から二十九年まで。
また保助の軍人手帳に記された入営から台湾守備隊日記に至る記述の中に、任務の記述に挟まった形で、キリスト教との関係を示す部分がある。
「明治廿七年十二月一日 晴風寒し」から始まり、廿九年の台湾守備日記まで、佐藤保助の日記は、保助のひととなりを今日に伝えている。
廿九年三月二十二日 晴 午前銃の検査(略)午后外出許可せらる(略)
麻布材木町七十五番地に日本基督教講義所あり入りて其主人を訪い(え)ば先年まで我郡信田沢小学校に奉職せる北郷保守氏なり種々快談時を〇して別る帰聖教に関する書籍数種を贈られたり
三月二十五日 晴 政蔵より手紙来る
三月二十六日 晴 午前北郷氏を訪ふて別意を告げぬ
六月十五日 晴□夜小田辺氏の処ニ遊ぶ 信仰上の談話あり
六月十九日 晴 田村兄弟より書簡
(七月)二十九日 晴。「余はすでに罪人なりしなり大罪人なりしなり歩哨の守則を犯しき罪人もて□なりぬ」
七月七日 晴 暑 「〇渋佐君より手紙来る愉快なる精神的の記事を以て」
保助がクリスチャンであった確たる証拠はまだ見つかっていないが、以上にかかげたとおり、彼が東京で、同郷の北郷保守という教会関係者と接触し、キリスト教書籍を入手するほどの心情を持っていたことは興味深い。佐藤保助の明治29年3月22日のキリスト教接触が、保助=保造のもうひとつの例証にもなりうると判断される。保助の日記は、北郷氏という信田沢小学校教員が、初期キリスト教徒であった事実を提供する貴重な記録でもある。
また、原町教会の最初の信者となった田村(音次郎)氏と思われる人物との交信でキリスト教徒が同信をあらわす「兄弟」としている記述や、「信仰上の談話」といい、みずからを倫理的な反省から「罪人」と表現するあたりに、保助の周辺にはキリスト教らしさの顕著な背景が現れている。
原町最初の入信者で原町教会の長老である田村姓は音次郎しかいないので、戦地にある同郷人に激励をつづける田村=田村音次郎、渋佐とあるのが酒造家で機業家の渋佐寿郎氏であるなら、原町のまさにキリスト教の青年グループの交流の渦中に保助がいたことを証明する。
渋佐寿郎氏には、青年時代の悩みを綴った日記がある。子孫によると、機業家としての経営的な困難な時期に、キリスト教に出会ったことから、この時期においての「精神的」記事というのは、まさに時期と記事分野を同じくする状況理由から、渋佐=寿郎は有力な推理である。
保助の日記は、まずピクニックにでも出かけるような気軽な調子で身辺雑記やものめずらしい見聞を闊達に記しているところからスタートする。そんな中に故郷や友人との間で手紙のやりとりをしている。
三月二十六日 手紙を出す。徳助兄より書状来る
三月三十日 衛兵を交代、身体検査、発熱、戦友桜井氏我為看護せらる、余は実に涙を以て謝しぬ
五月二日 家より薬品着す
五月九日 政蔵より手紙来る 即兄は一男を設け正雄と名付けし由なり
五月四日 佐藤力弥に呼び出されて、奢られる。鹿島右田の出身。
六月十五日 晴□夜小田辺氏の処ニ遊ぶ 信仰上の談話あり
六月十四日 軍事郵便を家に出す
六月十九日 晴 田村兄弟より書簡
六月二十日 晴 夜政三より手紙来る 高の要人君及愛治郎氏よりも来簡ありき
故郷の今は如何に 野馬追の今日は如何ならん 恋しくもまた今年昨年の今も此基隆湾中に在り 茲に七月二日を基隆に迎ふる事二年 来年は亦如何?
七月二日 東北大海嘯あり死亡凡三万 実に近来天凶変あり 野馬追祭如何なや
七月六日 朝未明兵舎内に大に騒擾を来し一発の撃射をくはえ何事あらんかと思ひ
政蔵より福島新聞及手紙文、芳賀君より手紙来る
七月七日 晴 暑 午前各個教練〇渋佐君より手紙来る愉快なる精神的の記事を以て□□らる
高の要人君にはがき及芳賀君に手紙写真送る
(七月)二十九日 晴 歩哨に立つが、前日までの看病疲れのため立哨中に見まわりの将校に発見され、肩をつかれて驚愕。「余はすでに罪人なりしなり大罪人なりしなり歩哨の守則を犯しき罪人もて□なりぬ」「嗚呼おそろしき一夜かな」
九月十七日 晴
此日政三及松本秀造氏より手紙来る 田村君より国民新聞来る 昨日家へ手紙を出す
九月二十一日 余は午后よりマラリヤ熱の気味にて病床に伏し
九月二十二日 病軽快に赴なり
十一月十八日 晴 書簡を政蔵、江井、佐庄、齋藤に出す
十二月二日 熱にて診断を受く
十二月十二月 晴 朝船着港す、芳賀君へ書簡を送る 家より薬品及書状来る 田村君より扶養峰てふ雑誌送らる 渋佐氏よりはがき 村上実太郎君より手紙来る
十二月二十日 「英語の試問ありて」と通訳候補の件についてしるし、
十二月二十二日 戦友の首なし死体発見について言及。
日記はここまでで終わり、翌日23日に保助も戦死した。
以上、保助の日記にみえる故郷との交信を抜き出してみたが、後半に至っては、これらは台湾での守備隊勤務の停車場衛兵、歩哨、斥候、戦闘勤務の合間に記述されたものである。
冒頭のピクニック気分は、占領地の守備という困難な軍務に明け暮れる戦闘詳報に変わっている。
原町市の福祉関係文書によると、佐藤保助の死亡日時および場所、兵種は次のようである。
明治29年12月23日戦死。陸軍。台湾花蓮港大魯閣、とある。頻繁に手紙の連絡をしていた高野要人も、37年8月30日に戦死している。こちらは日露戦争である。場所は玄海灘。ちなみに常福寺の広橋敬信は原町地区の近代戦争におけるはじめての戦死者だが、当時の新聞に消息が載っている。
以上。
片野桃子 14.10.10.着 手紙より
「このたびの貴重な資料有難うございました。教会関係名簿によれば保助は一番目で明治二十九年十二月三日 二十三歳 とあり、政蔵よりは大部年長になりますネ。最近古い戸籍を調べて頂き、曽祖父の名前も判明、明治六年生れになる様です。多分その間に一人位早世した人があるのかも知れません。教会名簿の四人目に佐藤二郎とあるのは弟の三郎の間違いかと思われます。戸籍によると十九歳没とあり、政蔵より二歳年下の十三年生れならぴったり一致します。三郎は写真師を志し仙台の写真館で勉強中チブスにかかり亡くなったと聞いてます。その下の詮は牧師ですので当然兄弟揃って洗礼を受けていた事と思われます。」