鈴木安蔵とその少年時代

父鈴木良雄は1877年4月28日出生。小高銀行支配人代理。明治37・1904年2月12日肺結核で急死。明治36・1903年小高教会で受洗
母ルイ 1878年1月14日―1925年2月18日 明治36・1903年小高教会で受洗
姉 瑛 1901年4月10日―1990年5月11日 宮城女学院卒。
安蔵 明治37・1904年3月3日出生-1983年8月7日没。79歳。
安蔵は洗礼は受けていないが、毎週教会へ。
1907年4月、相馬中学に入学。
「ささやかなる雑貨を商う一家」「昔の我家に返さん」との意気込みで勉強される
半谷清寿の立身「350石の収入の草野家老のように」という目標に相似。
「相馬中学始まって以来の秀才と言われた。
1年―1番。2年-番外。病気で未受験。3年―4番。4年―番外。進学のため未受験。
弁論部に入部。学識を備えた政治家となって、母を喜ばすため。
3年生のとき、東北文芸協会主催の「県下中等学校連合第一回雄弁大会」で優勝。
演題「心の声」1919年11月30日。福島市公会堂。
心の声 鈴木安蔵
 過去五星霜に亙った世界の大戦乱はあらゆる惨劇と破壊との跡をとどめて漸く此地球にフヤウエルを告げたのであります。そうして平和の天地は現出致されました。あたかも暴威を逞しうたる夜半の嵐が自然界の一切を蹂躙し一切を微塵にした後、遥か彼方東雲の空より燦然たる朝日のさし昇るが如く今や我々は幸福に充てる平和の光を仰ぐことができました。
 然しながら静かに考へて御覧なさい。利害の不一致や人権的偏見や理想の差異感情の齟齬等が全然消滅せぬ限り如何に現代の教育機関が完備しても宗教が宣伝せられても、到底今後争闘の絶無を期することは出来ますまい。況んや人性の奥底に争闘といふ大きな本能性の潜在して居る限り私は永遠に真の平和を見ざるべしと呼ぶに躊躇しないのであります。
4年生の時、第二高等学校弁論部主催「第一回東北中学連合演説会」で優勝。
1920年10月9日「孤独に徹する心」
「県下中等学校連合第二回雄弁大会」主催者からの依頼で招待選手として出場。
1920年11月28日。演題「ポプラ樹陰の独語」で熱弁をふるう。
3年生の時に「同盟休校」三日間を指導。
1920年2月。上級生のリンチを学内から追放するためのストライキ。72名のうち不参加は2、3名。謹慎3日間。勝利して、暴力はなくなった。
第二高等学校
1921年4月、相馬中学を4年で終了。仙台の二高に入学。
読書から「新カント主義哲学」に熱中。2年生の時。
友人栗原祐・京都出身の話から社会問題に目覚める。
1923年の秋、友人20余名の学友とともに「第二高等学校社会思想研究会」いわゆる社研を結成。貧困・気が・売春・疫病などの社会の矛盾を除去するため真剣に自己と社会の進路を求めるとの意図をもとに。マルクス主義に近づく。
憲法学への道
1924年4月「第二高等学校」を3年で卒業し、哲学を研究しようとの希望で「京都帝国大学文学部哲学科」に入学。
25年、経済学部に転科。26年1月18日、京大社研での活動が治安維持法違反で逮捕。
学連事件 全国で38名が逮捕された。25年3月1日成立の治安維持法の適応第一号。

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