鈴木良雄の死去は、すなわち安蔵の人生のスタートである。明治37年という誕生の年は、まさに日露戦争の年だ。野馬追の里である隣町の雲雀が原には、明治41年に禁裏の東宮がやってきたし、翌年には伊藤伯爵公が親代わりという朝鮮国から十歳の李英太子が鉄道から野馬追行列を見物されたという話題でもちきりだった。明治43年には、相馬から一挙して野馬追武者が上京して帝都の市民に故郷の誇りの騎馬行列を見せた。日本が国家ごと近代化という大きな軋みの音を立てて変化していた。繭にくるまっていたような小高の町に鉄道が開通し、2キロの町並みに蔵が犇めき、動力織機が朝から夕まで富を織りだす音響を響かせ、すくなくとも江戸時代以来の静かな地方の城下町には、童子の魂を震わす新しい活気がはっきりと現出した。日曜日やクリスマスには、職工の工女たちが基督教会にあふれて讃美歌が流れた。祭りには、見たこともない興行が立ち、幼児にも珍しい品々が知らない世界の片鱗を見せたことだろう。大正3年には、小高町についに電力が引かれて、名物秋市には、初めて煌々たる電飾のまばゆさが加わった。
小高町空前の賑(にぎはい) 大正3年12月
全町乙女の如くゴテゴテの体(てい)
在旧十月十四日の市日を七日に繰上げ「小高の秋市」として年々行ふ事牟(しか)り其第一回を二十三日より挙行、町々より三百五十余円の寄付を求め悉(ことごと)く装飾に費したれば各町殆と花の如き着飾りし乙女の如く美麗に時田岩太郎氏宅地内に
▼少年大角力有 り総て本場所の型通り行ひ常葉山、嵐山を大関に百名花化粧廻しよろしく二十二日は小高少年相撲協会の化粧廻し開きあり協会に賛助の家々を訪れ土俵入りの型を行ひお祝ひ申上げたり、本場所の木戸は無料なり
▼踊屋台の手踊 全町思い思いの余興を催す中には最も評判なるは踊り屋台にして和泉屋の桃子、玉子、トク子、岩亀の八重子、千代子など三十日も前から御稽古に余念なく一生懸命にて訓練されたればヤンヤの喝采を博する事請合なり
▼御趣向の花火 二十三四両日打ち揚ぐる花火は数百発に上り上る龍星、里下り空中にてパッと破るるや岡田商店の教育玩具林薬品店の清涼丹の猫いらず、石田呉服店の足袋、桜呉服店の石効足袋、柏屋商店の猫いらず、田代呉服店の子供洋服、佐藤新聞店の新聞券、綿屋商店の三徳バッチ、村田商店の蝋燭其他景品券を入れあり面白き御趣向として大人気なり
▼見切品大安売 呉服太物荒物、小間物其他各商店にては連合して見切り品の大売出しをなすべく下町石田呉服店より小高活版所前迄を区域とし我劣らじと所謂「秋市」の大安売りをなすべく各店其競争的に店頭を装飾し商品の陳列振りに有らん限りの腕を発揮したり
▼火の波も陳腐 なれど夜の小高町は全町に亘る電光飾を装し大電灯を上町に二ヶ所、中町に一か所、下町に一ヶ所、停車場に一ヶ所、県社通りに一ヶ所都合七ケ所に点じ各商店も亦思い思いに花電灯を点じて景気を添ゆる筈也
▼横町には撃剣 会あり柔道試合あり尚武の気風未だ抜けざる相馬の事なれば竹刀凧に鍬持つ人も多く道場は例に拠りて横町貴船神社脇に設けられ之れ亦頗る非常の前景気にて出場者百以上に達すべし
▼ 其他に興行物 として小高座に新派劇齋藤正一行大車輪にて開演し例の柿岡の大曲馬停車場前に小高掛して開演すべく其他活動地獄極楽など大評判なり兎に角くも今回の「秋市」は小高空前の賑ひなるべし
大正3年間での小高町の殷賑の例を引用してみた。これらは鈴木安蔵が生まれた明治37年から10年間すなわち10歳になるまでの、彼が幼時から目撃した町の光景でもある。小高小学校を卒業して、北方の相馬中学のある中村駅まで汽車通で通学するまでの、賑やかな町の雰囲気が目に浮かぶようだ。
この時期は、青年杉山元治郎牧師が東北学院を卒業して小高教会に赴任してきた時期とちょうど重なる。