小高教会 33~54年
八、地区教会協力伝道時代
-昭和三十三年(一九五八年)昭和四十年(一九六五年)
昭和三十三年(一九五八年)頃から相双地区の協力伝道の気運が高まり、世界祈祷日には各教派教会合同の祈祷会を婦人部が主催となって行なうことに成り、その第一回を中村福音教会で開催して八○名余の出席があり、夏期には年々合同の修養会を太平洋聖書学友の名の許に回を重ね、復活節には地区教会合同の記念礼拝を行って五十七名の出席者があった。
この当時の相馬地方は、中村教会に藤本光栄牧師、鹿島栄光教会に江原惇牧師、原町教会に成瀬高牧師、小高教会に山内春雄牧師が定住していたが、昭和三十二年には藤本牧師は中村教会を辞任し、同三十三年には山内牧師が小高を去り、続いて中村教会に古山金作牧師が、昭和三十四年(一九五九年)には佐藤仁牧師が、小高教会に着任することになった。佐藤仁牧師は小高教会に十年余の間定住して種々の業蹟を残したが、その主なものを挙げると、先ずおだか幼稚園の整備に力を注ぎ、五年計画をもって園舎の改築及増設を計画して今日の設備を実施して、福島県の認可を取り教会附属幼稚園の性格を明かにして、小高教会附属幼稚園と改称し、母の会を強化してその活動を指導して「母の友文庫」を創設して母親教育を志す等意欲的に活躍した。
更に教会学校の形態と宗教々育の徹底を計るため「夏期学習キヤンプ」を行ない、地区の教会学校と共同して宮城県利府町にある「森郷キャンプ」場に於て四泊五日の夏期キヤンプを実施して五年間に亘ってこれを指導した。また相双地区教会の実態を考慮して、合同教会構想を地区の牧師達と発想してその中核となって努力し、広く全国の合同教会構想の地方を実地検分し、浪江教会の伝道開発には原町教会の成瀬牧師と共に熱心に活躍する他、昭和四十年には小高教会六〇周年記念会及歴代の信徒の永眠者記念会を行って、杉山元治郎氏を招いて有意義な会合を行ないその実績は高く評価されている。
九、地区合同教会以後
昭和四十二年(一九六六年)~
昭和四十八年
相双地区の合同教会構想は着々実現の方向に向ったが、各教会の内部事情は必ずしも充分統一を見ることが出来ず昭和四十二年(一九六六年)四月原町教会に於て、合同役員会を開催し、審議の結果 時期尚早との結論に達し、五年間に亘る努力に一応終止点を打つことに成ったが、数年に亘る地区内教会の協力関係は他の地区に見られない親密度を加えたことは決して無意義ではなく、そのことを今後継続して行くことを薩認し合って「相双地区伝道協議会」を組織することになった。
その間浪江伝道所の設立により宍戸七彌牧師が着任、鹿島栄光教会は江原牧師渡米のあと、四国阿波池田教会の野村幸男牧師が着任、更に野村牧師は再び池田教会に復帰したので、古屋朝則牧師が着任することに成った。
昭和四十四年(一九六九年)新春早々中村教会に於て地区伝道協議会総会を開催して、種々協議を重ね五年余に亘る合同教会構想の実蹟を回顧し、今後の地区教会の協力関係を協議した。相双地区伝道は茲に新たな方向を模索することに成ったが、小高教会も自ら従来の方針を検討することに成り、数年間続けた学童の「学習キヤンプ」を昭和四十四年をもって中止することとし、新たな方法を考えることに成った。その間長い間協力関係にあった原町教会の成瀬牧師は、老令と健康の故に隠退を表明し、佐藤牧師と成瀬牧師との間に原町教会、小高教会合同の話合いもなされたが、実現に至らなかった。原町、小高両教会の歴史的関係から見ても両教会の合同は考慮に値することは言うまでもないが、単に牧師同志の合意のみでは果 たされないことである。
昭和四十五年五月(一九七〇年)成瀬牧師は正式に牧会を隠退し、北海道教区八雲教会牧師片山義明氏が後任として赴任した。
昭和四十六年(一九七一年)佐藤仁牧師は山梨県勝沼教会の招請により、翌年一月小高教会を辞任して、小高を去ることに成り、地区合同礼拝を小高教会で開催して、佐藤牧師の離任説教があり、約十年間の小高の生活を終って新しい任地に赴いた。
小高教会の今後については当分定住牧師を招かず、原町教会の兼務と言う目標で、片山牧師が、佐藤牧師の事務を引継いだが、東北教区の方針の許に東神大新卒の斎藤康彦牧師が赴任することとなり、同年五月東北教区田中議長が来訪就任式を行った。
更に昭和四十七年四月には鹿島栄光教会の古屋牧師の石巻教会転出に伴い、古山牧師が鹿島栄光教会へ、中村教会には新任山口牧師が、そして宍戸牧師の隠退に伴い、浪江教会には松島牧師着任と相双地区は全般 的に異動が行なわれて、愈々新しい時代に突入した。
その結果従来の地区教会連帯関係は大きく後退し、各々各教会が独自に教会形成に努力することに成った。小高教会もまた従来の方針を褒更することに成り、斎藤牧師の指導
の許に教会内部の確立に当ったが、昭和四十八年三月斎藤牧師の東新潟教会転出が決定し、教会は止むなくこれを承認した。そして斎藤牧師辞任の後の方策につき、東北教区議長菅牧師及原町教会片山牧師の来訪を得て、種々協議の結・、定住牧師を急速に求めることが困難であり、当分原町教会片山牧師の兼任とすることに合意した。然し原町教会役員会は、片山牧師の兼牧に難点を示し、小高教会を当分無牧のままとして応援することを決定した。
そして当分の間原町教会名誉牧師成瀬牧師に応援を依頼することに教会の意見が一致し、教会及幼稚園を従来通 り続けることとした。
四月教会総会では教会創立七〇周年記念行事を本年十月を期して、実施することを決議し、その準備をすすめることと成った。
十、牧師移動時代
昭和四十九年(一九七四年)昭和五十八年十月現在
一九七四年から現在に至るまで、この小高伝道は四名の牧師を迎えた。
この中で小高伝道所に定住して伝道・牧会に当られた先生は、中沢牧師だけである。松島牧師は浪江伝道所と兼牧であったし、中井牧師も鹿島栄光教会の主任であり、代務教師であった。これらの困難な牧師移動の時代にあって、小高伝道所を守ったのは、忠実な信徒を主が残されたことと、成瀬隠退牧師に甚大な助けを受けたことを忘れてはなるまい。
相双の各教会にとっても牧師移動の時代であった。附属幼稚園は幼児減少の時代に入ったが、ある程度の数は満されてきたことは幸であった。
五十六年三月に不慮の火災にあい、園舎一棟を全焼したが、町や教区の援助によって、以前よりもりっぱに再建さされ、教室が一つ増やしたことは、良い決断であった、と思う。