国のかたち 獄中で模索
ひつぎを開けてあらわになった友人の亡きがらに、鈴木安蔵は息をのんだ。
胸に残るおびただしい内出血、そして両股の付け根に見える鉄腐りの食い込んだ痕。いずれも拷問を受けたことを示していた。その友人の姉は遺体にほおずりをして泣き伏した。
1932年(昭和7年)11月、東京。前年に満州事変が起きるなど、日本は坂道を転げ落ちるように戦争へと突き進んでいた。
このとき鈴木安蔵は28歳。京都帝国大学(現在の京都大学)を5年前に自主退学し、東京で翻訳や雑誌編集で生計を立てていた。遺体はかつて鈴木とともに治安維持法で摘発された6歳上の先輩。共産党員として活動する中、当時の特別高等警察(特高)の取り調べを受けていた。
鈴木は「医学的な所見で、当局の発表のごとき肺病、心臓まひなどではまったくなく、凶悪な暴力による締めつけ、内部の多量な出血が死因であることを示すものであった」と雑誌で回想している。
大学時代から貧困や差別の社会矛盾を巡って体制批判をしてきた鈴木もまた、特高に目を付けられて在学中の26年と中退後の29年に治安維持法違反の容疑で逮捕され、獄中生活は計3年半を越えた。
「(無抵抗な自分を)迫害するこの国家は、そもそもどんな性格をもち、いかなる由来を有するのか」と、著書にある。「国のかたち」に対する強烈な疑念が、憲法への関心へと変化していったのだろうか。
鈴木は退学した年に結婚した妻の差し入れで、獄中では憲法学の本を読みあさった。外国の私擬憲法などの研究を深めた。それが、後の憲法研究会の活動で役立つことになる、
研究会で憲法草案の議論をする際、鈴木は人権保障を第一に据えた。「言論の自由を奪われ、牢屋まで入れられる体験をしたからこそ。人権意識が骨にしみついていたのだろう」。鈴木の地元、福島県南相馬市の郷土史に詳しい二上英朗(64)=福島市=はそう語る。
ハンコ靴精神は、10代には既に芽生えていたようだ。
鈴木は故郷の福島県小高町(現在の南相馬市)で、福島県立相馬中学(現在の相馬高校)に通っていた。弁論部に入り、圏内や東北大会で優勝。「相馬中学始まって以来の秀才」と呼ばれ、同級生のリーダー格だったという。
3年生だった20年(大正9年)には、同級生と3日間、授業をボイコットしたことがあった。理不尽な上級生の暴力とそれを黙認する学校への講義だった。
「これ以上の不当な暴力は許せない」。鈴木らの訴えに学校は折れ、首謀者の上級生を処分、鈴木らも3日間の謹慎になったものの、校内から不当な暴力は姿を消したという。鈴木の足跡を調べている詩人、若松丈太郎(81)=南相馬市=は「理不尽ないじめに立ち向かう正義漢だったのでしょう」。
南相馬で鈴木の功績を語り継いでいる「原町九条の会」の事務局次長、山嵜健一(71)=福島市=は「安蔵の精神の一端は故郷、小高で育まれた。小高は「憲法の古里」とも言えるのではないでしょうか」と話している。
北海道新聞 4月12日号