小高銀砂工場の閉鎖
工場の方は戦後も順調で、何とか上向きでしたが、公害病の珪肺患者がぽつぽつ出はじめ、頭の痛い時代となりました。主人の祖父が工場を建てた時は、周囲は広い野原で駅もありませんでしたのに、まわりには次第に家が建てられ、町もできたために今では許されないような駅前の工場、機械の振動騒音、川の汚水、そして公害病という四つの悪条件で頭を悩ます時代となりました。社長とはいえ、小さな町工場ですから主人は工員と一緒になって粉じんの中に入っていたために、一九七五年九月十七日に喀血し、ついに珪肺病で倒れたのです。
そして、九月から翌年の三月末まで東京の病院に入院し、福島の自宅へは四月十二日に帰宅すると、四月十三日に工場操業停止を言明し、そして六月五日に会社経営にピリオドを打ちました。主人の代(四七年間)になってからでも、約半世紀の仕事をストップさせることに一抹の寂しさはあるものの、新しい人生のスタートとして受け止めました。その時、主人の日記に記された「天候の五月晴れのごとくさわやかなり…」の言葉のごとく、私たちは新たな出発に望みを置いていました。まもなく工場は、ブルドーザーで次々と壊されていきました。
おそらく主人の心の中には、言い知れぬ痛みがあったことでしょう。主人は病気と闘いつつ、この大きい試練にも耐えていました。空き地になった工場跡地に立ってぽつんと一言「何もなくなったね」といった主人の心の中には、ぽっかりと穴が空いたのだろうと思うと、私は胸が締め付けられる思いをしました。
半谷昌「ナルドの壺」p154
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