姑が他界したあとは、家を開放し、木曜と日曜日の集会を開かせてくれました。私が主を信じてから十八年目のことです。それまでは日曜礼拝は汽車に乗って四〇分位の大野という所にある「大野教会」へ出席し、夜は各家庭集会を転々として過ごしました。場所を借りていた日本キリスト教団の教会からは、信者が増えるにつれて「信者をおいて、ホレチェック師は引きあげろ」との話でしたが、私たち信者は「ホレチェック師について行く」と行って、日本基督教団の教会には留まりませんでした。それだけに、夜の集会場所確保には、ひと苦労もふた苦労もあったのです。
 半谷昌「ナルドの壺」p151

 小高町のキリスト教の集会は、駅前通りの旧来からあった小高教会を借りて、ホレチェック宣教師らが伝道していたが、クリスチャンといえども一つの町にひとつの集団ということにはならず、戦後の信者の増加に違和感を覚えた古い信者から、アメリカ人宣教師の人気に対する嫉妬だろうか、価値観の違いが表面化してきた。古い信者から「ホレチェック師は引きあげろ」との声が上がった。しかし、新しい時代の新しい福音にすなどられた人々は、別の集団を形成した。
 原町の教会の牧師として戦後に赴任したホーリネスの岡田牧師と汐子夫人をめぐるケースに酷似している。原町で教会が分裂したのは昭和23年(1948)6月のことで、岡田静夫牧師はおもにホレチェック宣教師とともに行動していた。
 福音の作用にも多様化の時代がやってきたのだった。
 

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