彼は小高教会のほか、大甕村、幾世橋村、鹿島町、八沢浦干拓地に、毎月定日に出張伝道し、小高町でも大和田、女場、吉名の各部落を巡回して説教した。またある年には毎週二回小高町の街頭で一般町民にむかって路傍伝道した。そのうちで彼が自ら開拓し、もっとも効果をあげたのは、八沢浦の布教であろう。干拓成功とともに入植した農民を相手に、毎月二日、十六日の二回出張して伝道したが、大正三年シュネーダーを招いて三十三名に洗礼をほどこし、また会堂を建設して中会加入の講義所にするなどの実績をあげた。
彼の小高における不況の特徴は、何といっても、農村青年を相手に農民高等学校を起して、後年の彼自身のキリスト教布教の中心をなした農村伝道の出発点をつくったことにあった。
彼が農民高等学校をはじめた動悸が、当時の福島県原ノ町農学校の伊藤校長にすすめられて手にしたホルマン著「国民高等学校と農民文明」の訳書を読んだことにあったことは、自叙伝にのべている通りである。彼がそれを読んでグルンドヴィヒやクリスチャン・コルの精神にふれ「神を愛し、隣人を愛し、土を愛する精神をもって死を征服する奉仕者をつくる」ことをよみとり、感激の幾夜を送ったことは想像にかたくない。そして感動した心を直ちに実践するべく立上ったのであった。まず数よりも質、形よりも精神の尊重すべきことを考え、日本古来の寺子屋を現代に復活して、人格と人格とをぶっつけあう教育を夢にえがいた。そして吉田松陰の松下村塾や広瀬淡窓の咸宣園の教育におのずから思いをめぐらした。
つづき
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